終戦記念日報道

76年目の夏

第二次世界大戦あるいは大東亜戦争が、日本の降伏によって終結したのが1945(昭和20)年8月15日。今年の夏も、広島の原爆記念日(8月6日午前8時15分)、長崎の原爆記念日(8月9日午前11時0分)とともに、終戦記念日を迎えるにあたり、戦争関連のニュースが発掘され、報道されていました。ある種の夏の風物詩化しているわけですが、これを「マンネリ」「おざなり」として批判する人もいるようです。

確かに、既に戦争を記憶している人は年々減っているわけですし、「戦争を知らない子どもたち」(1970年発売、北山修作詞、杉田次郎作曲のフォークソング)を歌った当時の「若者たち」さえ既に60代以上です。一体、だれが何のために「終戦記念日報道」を必要としているのだ、という指摘があっても無理はありません。現代の若者にとって、第二次世界大戦を「先の大戦」と呼ぶことも、まったくぴんと来ないかもしれませんね。

一億通りの記憶・一億通りの戦争経験

当時の軍国日本の国民標語に「進め一億火の玉だ」というのがあったそうです。この一億は日本国民の数を意味していますが、当然戦時下の誇大表現なので、この一億は日本列島だけではなく日本の支配下にあった朝鮮半島、台湾の人口を加えた数字です。日本列島の人口は6-7000万人くらいだったと思います。そして、終戦時の日本軍の兵力を陸軍600万人強、海軍200万人程度と見積もると 軍人の数_150724.indd (moo.jp) 800万人強(全人口の一割以上)が兵士として終戦を迎えたことになります。

この中でも、東南アジアや太平洋上の島々に配置されていた人々は、とっくに兵站が途切れジャングルを逃げ回る「作戦」中で、終戦の事実を知らずに病死したり、また不要な戦闘で命を落とした人も少なくありません。私は2017年にサイパンに初めて行きましたが、有名なバンザイクリフは、アメリカ軍の捕虜になることを避けるために、自ら断崖絶壁から飛び降りた民間人が多くいた場所ですね。

その場所に立つと、次々と子供や女性が飛び降りていく米軍撮影のフィルムのシーンが思い浮かんでつらくなります。しかし、それ以上に切ないのは崖の上に競うようにして並んでいる立派な慰霊碑が、遺族・関係者の高齢化で訪れる人もなくなり、朽ちていく過程にあることです。

太平洋上の島では同じような悲劇が、互いに分断された中で並行して発生していたのですが、ペリリュー島に取り残された兵士たちの物語が最近マンガになっていますね(武田一義『ペリリュー 楽園のゲルニカ』(ヤングアニマルコミックス)。

1945年に入って、戦況が悪化すると兵隊だけでなく「銃後の人々」も地獄を見ることになります。3月小笠原諸島の硫黄島玉砕・陥落。3月東京大空襲(一夜にして10万人殺戮の無差別攻撃)、4月~6月沖縄戦(いわゆる本土決戦の第一幕、18万人の死者・行方不明者)と続き、広島原爆(14万人死亡)、長崎原爆(7万人死亡)でようやく終戦を迎えました。この間、亡くなった人はもちろん、運よく生き延びた人たちにも一人一人の「戦争の記憶」が刻印されていたのです。

九軍神の宿

私の両親の郷里は愛媛県の西の端、九州に向かって突き出した細長い佐田岬半島(鹿児島のは佐多岬)です。父は昭和二年生まれだったので終戦時にはまだ徴兵年齢に達しておらず、戦争に行くことはありませんでしたが、交代で山に登って敵機の来襲を見張る仕事をしていたという話を聞いたことがあります。父の実家は細長い半島の南側で、太平洋(宇和海)に面していたのですが、母の実家は半島の北側、瀬戸内海に面した三机(みつくえ)という、そのあたりの中心的な町でした。この町は良港「三机湾」に面しています。

この三机湾は、何の因果かその地形がハワイ湾に似ているのだそうです。そこで、真珠湾攻撃をひそかに準備していた海軍は、二人乗りの特殊潜航艇(甲標的)を開発し、1941(昭和16)年夏にこの三机湾で演習を繰り返していたのです。訓練をしていたのは瀬戸内海の向かい側の、呉の海軍基地の兵士たちでした。三机には基地はないので、訓練生(海軍さん)はみなこの町随一の岩宮旅館を宿としていました。

そして,開戦。12月8日に真珠湾奇襲に成功した日本軍は、停泊中の米国艦ミズーリ他に甚大な被害を与えます(これが、Remember Pearl Harbor! という標語を生みます)。戦闘に参加したのは主として航空機でしたが、五隻の特殊潜航艇も湾内侵入攻撃を試みました。しかし、五隻とも撃沈ないしは座礁してしまい、9人の乗組員が対米戦最初の戦死者となります。

軍は戦死したこの9名を、戦時下の国民の士気を高めるために「九軍神」としてまつり、二階級特進の栄誉を与えます。そして岩宮旅館は「九軍神が泊まった宿」として愛国のしるしとなり、田舎町三机は、九軍神を生んだ町としてのプライドを抱くようになります。

私は、小学生の頃(昭和40年代前半)毎年夏休みは母と弟と共にこの三机に帰省し、三机湾で泳いでいました。そして私は知らなかったのですが昭和41年8月に三机に立派な「九軍神慰霊碑」が建ったのです(私はその時に、三机にいたかもしれません)。戦後16年。国家のプロジェクトではなく地元の人々が200万円の寄付を集めて建立したというのです。まだまだ、愛国心の残渣が色濃かった時代なのでしょう。碑文を揮毫したのは、時の総理大臣佐藤栄作です。(岩宮満『特潜勇士と軍神宿』あきつ出版 1995)

捕虜第一号

ところで、二人乗りの甲標的が五隻で突入したのに、戦死者9人=九軍神では、計算が合いません。実は、1人だけ生き残り「捕虜第一号」となった兵士がいたのです。しかし、戦時下の日本軍では「捕虜になるのは国の恥」と言われており(だからこそ、南洋で多くの人が無意味な自決を強いられたのですが)、以後酒巻少尉は日本の報道からは抹殺されます。

酒巻氏は、全戦争期間中アメリカ本土で捕虜として過ごし、1946(昭和21)年に帰国します。彼は「捕虜第一号」(新潮社・1949)という回想記を後に書いていますが、それをもとにして2011年にNHK土曜スペシャルで「真珠湾からの帰還」という番組が作成されました。

子どもの頃、母親から「くぐんしん」という言葉を聞いていて、それが真珠湾攻撃と関係があることは知っていたものの、なぜ「9人」なのかを考えたこともありませんでした。この夏このDVDを見る機会があったのですが、こんな風に死んだ人、生き残った人それぞれに「戦争の記憶」があることに、改めて気が付いたのでした。

なお、酒巻氏はその後トヨタ自動車で働き、ブラジル・トヨタの社長を務めたということです。まさに「高度成長の戦士」となったのでしょう。それはそれで、また興味深いですね。

【日本の経験 2021/8/24】

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