未開の国を描く

発見された日本の風景

京都国立近代美術館で「発見された日本の風景」という展覧会が開催されていました。平安神宮の大鳥居の手前にあるこの美術館に来たのは二度目です。前回は2016年の2月、着物作家(と言うのでしょうか、染織家という呼び方もあるかも)の志村ふくみさんの文化勲章受章記念作品展でした。

今回のテーマは明治の日本の風景ですが、外国人画家の見た「美しい日本」の風景です。つまり、同時代の日本人画家の目ではなく、西洋人が「東洋の異国」それも、これまで西洋諸国に閉ざされていた「秘境」「未開の地」を見る目、を手がかりにした絵画集です。

それは端的に言って、近代化開始直後の、まだ古き良き江戸時代の残る風景です。同時代の「開化志向」の日本人にとっては、さっさと打ち捨てたい野蛮な過去。でも、外国人から見ると「自分たちにはとうに失われた桃源郷」。こういうまなざしのズレは、今でもありますね。日本人が、アジアやアフリカの観光地に行って「素朴な人々の生活」「貧しいけれど目を輝かせている子どもたち」に感動する、という手の話。

ただ、今回の展示作品286点(これは、かなりのボリュームです。三部構成になっていますが集中力を維持するのは、ちょっと大変)のうち、外国人が描いたものは約100点。残りは同時代の日本人の手になる作品です。しかし、そのまなざしは「失われていく日常生活」を惜しむ外国人の視点を取り入れたものがほとんどです。だから「発見された」風景ということになります。

ワーグマンに学んだ人々

チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman:1832-1891)、は、ウィキペディアを借りると、【イギリス人の画家・漫画家。幕末期に記者として来日し、当時の日本のさまざまな様子・事件・風俗を描き残すとともに、「ポンチ絵」のもととなった日本最初の漫画雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊した。また、五姓田義松や高橋由一をはじめとする様々な日本人画家に洋画の技法を教えた】とあります。

幕末時代の初代駐日イギリス公使オールコックの記した日本紀行『大君の都』(岩波文庫・上中下)の挿絵の中にもワーグマンの絵が多く取り入れられています。今回のの展示作品の中で印象的なのは、田舎の宿場町の人だかりを描いた、ちっょと浮世絵風の水彩画「見物する人々」(図録P.91)で、日本人にとっては見慣れた風景が、外国人の目にはとても興味深く映ったのだろうことが想像できます。

彼は明治政府に雇われたわけではなく、イギリスの新聞社の仕事で日本に来たのですが結果としては、当時の「お雇い外国人」と同様の機能を近代日本美術史に刻印したと言えます。今回の展示でもワーグマンの絵が何枚も展示されていますし、彼の弟子で「最初の宮廷絵師」となった五姓田義松の明治天皇随行画もあります。

また外国人が珍しがり、好んで取りあげた「子守をする子供」や「神社仏閣の門」、街道の「宿場町」なども、日本人画家のモチーフに取り上げられています。写真がまだまだ珍しかった時代ですから、当時の服装や人々の日常生活を知るための素材としてはとても豊かな情報源となるので、「近代化を開始した当時の日本」を知りたい開発社会学者としては、どの絵も見飽きることのない興味の対象です。

ハンフリー・ムーアの「駕籠かき」(図録p.122)は、体一面に彫り物をしたふんどし一丁の二人の駕籠舁きの姿が描かれています。きっとムーアは彼らの彫り物にびっくりしたのでしょうが、現代のわれわれにとってもびっくりする彫り物姿です。江戸落語の「火事息子」に出てくる火消しもこんな姿だったのでしょうか。

観光随行絵師

当然、外国人は日本に来たらあちらこちらを観光したいわけで、まだカメラなんて超貴重品ですから持ち歩くわけにはいかず、その代わりに日本人絵師を雇って観光地まで同行させ、景色を描かせてその絵をお土産にする、ということが行われたようです。

本展に展示されている、日本人の描いた観光名所の絵の多くは、そのようにして描かれ、注文主によって海外に持ち出され、その後紆余曲折を経て日本に里帰りしたものも多いとのこと。当時の外国人のお決まりルートである日光の絵が多いのもそのせいでしょう。

それ以外にも東海道や中山道の風景、その道中から見える富士山(これは北斎と同じ視点ですが、水彩画になるとずいぶん印象は変わります)、京都、長崎、外国人居留地であった神奈川近辺、江戸は芝や増上寺、さらに上野、浅草が登場するのは今と同じ。

笠木治郎吉

これまで、あまり名前を聞いたことがなかったのですが、本展で何点かが展示されていて印象的だったのが笠木治郎吉(1862~1921)という人の絵でした。新聞を抱えてわらじ姿で疾走する「新聞配達人」、鉄砲を抱えている「狩人」(ともに図録p.130)、農村の風景(図録P.132-133)、漁村の風景(図録P.144-145)、「提灯屋の店先」(図録P.112)など、描かれている日本人の顔はくっきり、そして服装や持ち物、背景のディーテールはとても写実的で、どの絵もわかりやすさでひきつけられます。これらの絵は、彼が横浜で外国人相手に描き、土産物として売ったものなのだそうです。

そんなわけで、彼の絵は日本国内で評価されることもなく、「伝説の画家」という異名を持っていたのだとか。彼も、やはり横浜でワーグマンに学んだそうで、のちに洋行したという説もあります。この人の絵がコレクターなどの手を経て徐々に里帰りし、日本に集結しつつあるようです。笠木治郎吉については、朝日新聞の記者である渡辺延志さんがストーリーを発掘しています。
朝日新聞デジタル:(115)幻の画家・笠木治郎吉〈上〉 – 神奈川 – 地域 (asahi.com)
朝日新聞デジタル:(116)幻の画家・笠木治郎吉〈下〉 – 神奈川 – 地域 (asahi.com)

治郎吉さんの絵は、どれもとても分かりやすいのですが、ちょっとモデルの顔がすっきりしすぎている点が気になります。当時の日本人の写真を見ると団子っ鼻で、色は浅黒い感じが一般的なのですが、治郎吉さんの描く農婦、漁婦は鼻筋が通っていて、白い肌が強調されている感じなのです。もちろん、こうした風貌の日本人もいたでしょうが、外国人用に「デフォルメ」したのかもしれませんね。

私たちが異国、それも近代化がまだ浸透しきっていない途上国の農村に行ったりして、その素朴な暮らしぶりに感嘆したら、その時のイメージは美化されて脳裏に焼き付きます。そうした明治時代の外国人の「美しき日本」のイメージを、治郎吉さんは正確に描いていたのかもしれません。

《図録『発見された日本の風景 美しかりし明治への旅』毎日新聞社 2021》
【2021/9/28】(日本の経験、明治の近代化)

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