アラブ・コネクション

フェイスブックにHi

先日、フェイスブックのメッセンジャー機能で、突然イエメン人らしい人から「Hi」というメッセージが入りました。そして、懐かしい銀製品の写真が10数枚続いて届きました。私はかつて、世界遺産でもあるサナアの旧市街に住んでいたことがありますが、最初に私の借りていた家は旧市街の中心部の「スーク(市場)」の中でも外国人観光客に人気の「銀スーク」のすぐそばにありました。

当時私は、毎日のように銀スークの店をあちらこちらを冷やかして歩いていましたが、そのうちに何軒か「馴染み」の店ができてきます。一番重要なのは「品揃え」なのですが、どの店もたいてい似たような品揃えですから、次に大事なのは「相性」となります。私のような中途半端なアラビア語使いにも楽しく付き合ってくれる人とのところをのぞき込んでは、お茶をごちそうになるようになりました。

スークでの「お茶」はお店の人がいれてくれるのではなく、太い針金でこさえた輪っかにガラスのコップが六つ七つ入るような容器をぶら下げて「デリバリーサービス」をしている少年たちがいるのです。その一人に、「お茶三つ」と注文すればあっという間に、近くのお茶屋でヤカンで煮出したアツアツの紅茶が運ばれてきます。種類は二つで「ミルクティー(ハリープ)」と「ストレートティー(アハマル)」。どちらも砂糖はしこたま入っています。

外国人が「お砂糖抜き」を欲しがる場合には、「ビドゥン・スッカル(without suger)」を注文することはできますが、この場合は熱湯にティーバックを突っ込んだものが届きます。でも、味はいまいち。

さて、このフェイスブックの向こう側にいるのは、いったい誰だろう、と思って返信を躊躇していたら、今度は30年前の私が映っている写真が届きました。「おお、これはまさしくいつも通っていたM・Yの店」。この写真は私が現像して彼にあげたものです(1980年代はまだ、スマホはおろかデジカメもありませんでした)。

通話してみる

続いて、今度はボイスメールが入りました。「ヤーサートー(おーい、佐藤さん)」。おお、まさしくこの声はM・Yです。続いて「電話番号を教えてくれ」というメッセージ。私が最後にイエメンに行ったのは2010年の5月で、その時もこの店には行ってますから11年ぶりということになります。フェイスブックを使えば、いとも簡単に11年ぶりの友人に繋がれる、ということを実感しました。

ただ、やたらに電話番号を教えると後々面倒なことになる可能性もあるので、数日後に私の方からメッセンジャーの通話機能で電話をかけてみました。さび付いた私のアラビア語で会話できるのか、少し心もとなかったのですが、懐かしい声を聞きたいと思ったのです。出てきたのはM・Yではなく、息子のワヒードで、メッセンジャーを送ってきたのも彼でした。確かに、M・Yの店に行くと、よく息子たちが三人ほど代わりばんこに店番をしていたので、そのうちの一人でしょう。当然、向こうは私を良く知っていますが私はどの子だったかはよく覚えていません。

とにかく懐かしいので、「いやー、声を聞けて嬉しいよ」と言い、定番通りに「そちらの様子はいかがですか?」と聞きます。普通の会話では「アルハムドリッラー、ビヘイル(おかげさまで、元気です)」という答えが返ってくるところですが、今のイエメンではそんな答えは期待できません。

最悪だ

ワヒードの口をついて出てきたのは、「戦争でどうしようもない。観光客は来ない、仕事はない、金はない。親父は家で病に伏してる」でした。そうですね。もう空爆開始から六年半になります。その間ずっと内戦状態で、サナアを含むイエメン北部山岳地は外界から遮断されています。当然、外国人観光客も入ることができません。外国人観光客が来なければ、「銀スーク」はあがったりです。

「お父さんは、どんな様子なの?」と聞くと、ワヒードは「30分後に家からかけなおす」とのこと。イエメンと日本の時差は六時間でこの時日本は深夜12時。向こうは午後六時でちょうど夕暮れのお祈りの時間くらいです。眠さをこらえて待つことにしました。

30分後に再び電話がかかって来て、懐かしいM・Yが電話口にいました。「元気か?家族は元気か?奥さんは元気か?子供たちは元気か?」という挨拶が続きます。そうそう、これがアラビア語の挨拶でした。そして、いかに現在のサナアの様子がひどいか、という訴えがまた続きます。本当に、気の毒なのは間違いありません。私は慰める言葉もなく、ただ聞いているだけ。その後は私のさびついたアラビア語では意思疎通もままならないのですが、日本とイエメンとの経路について「ヨルダン経由」だとかなんだとか言っている様子。日本に来るつもりなのかな、と思いながら聞いているうちに、回線の具合が悪くなって切れました。でも、懐かしい友人の声を聞くのは嬉しいものです。

商売しよう

これだけ生活の苦しさを訴えられれば、次に予想できるのは「お金を送ってほしい」という要求が来ることです。そして案の定。次に送られてきたメッセンジャーの投稿は送金会社のウェスタンユニオンとマネーグラムのロゴマークでした。ただ、単にお金を送ってくれということではなく、どうやら商売の話のようです。続いて、銀製品の写真が10数枚。これを日本で売りたいというのです。

ううむ‥‥。でも日本でアラブの装飾品は売れません。趣味が合わないのです。もちろん、日本人が中東に旅行に行けば、お土産に現地で銀製品などを買うことはあります。だから、イエメン人も「日本人は買ってくれる」と思うわけです。しかし、私は1990年の大阪の「花と緑の国際博覧会(花博)」以来、多くの場面でイエメンの銀製品を日本で売ろうとして、うまくいかないケースを見てきたのでかなり確信をもって「売れない」と断言できます。

試しに、サンプルに送られてきた写真のネックレスを「いくらで売りたい?」と聞いたら、「600㌦」と即答。わたしの見るところ、このネックレスは日本ではせいぜい80㌦でしょう。しかし、それであきらめるようではアラブ商人とは言えません。

翌日は「ネックレスをドバイ経由で10個送る、送料含めて1200㌦送金してくれ」というメッセージ。なるほど、先日の電話で話していたのは銀製品の輸送ルートだったのですね。

でも、ただお金をせびるのではなく、商売しようというあたり、さすがサナアの銀スークの商人。ちょっと安心したのでした。

【2021/11/3】(イエメン、銀製品、海外送金) 

Follow me!