17世紀のグローバリゼーション

ざわつく日本美術展

サントリー美術館で開催されていた「ざわつく日本美術」展の最終日に行ってきました。今年は東京国立近代美術館(大阪では大阪歴史博物館)で「あやしい絵」展もあり、キューレーター(学芸員と日本語では訳されますが、もうすこし演出者的な要素もあると思います)の腕の見せ所、という展覧会が続きますね。新型コロナ下で外出しにくい人にとっては、比較的すいている美術館は貴重な空間になりつつあります。

この展示でも中世~近世の日本美術・工芸が集められ、「ざわつく」というキーワードを使って展示されています。いつもながら、私は開発社会学の視点から眺めるわけですが、興味深い展示が4つありました。いずれも、鎖国中の江戸時代のグローバリゼーションについて考えさせられるものでした。

17世紀のグローバリゼーション

ご存知の通り、江戸幕府の鎖国政策は1639(寛永16)年のポルトガル船来航禁止(キリスト教布教を禁じるため)から始まったことになっていて、以来西洋(当時の日本の世界観では「南蛮」)との交易はオランダが独占することになります。ということは、完全鎖国ではなく「オランダを通じた交易」は続いていたわけで、この意味では日本も17世紀からグローバリゼーションに本格的に巻きこまれ始めていたということでもあります。

興味を引いた最初の作品は重要文化財の「色絵五艘船文駒形鉢」です。ところで日本の美術品の命名は専門家にはシステマチックでわかりやすいのでしょうが、素人には何と読むかわからないものが多いですよね。これを素人風に読むと「多彩色で、五隻の(南蛮)船が掛かれている文様の、独楽のような形をしている、(食事用の)鉢」ってことですね。有田焼の大鉢です。17世紀以降の有田焼は基本的にオランダ東インド会社が一括・発注一括販売するわけで、ヨーロッパに売るための一種のOEM生産(0riginal Equipment manufacturing)ですね。もちろん販売時に「日本の有田焼」ということは明示され、ヨーロッパ貴族のオリエンタル趣味に訴えかけますが、デザインに南蛮船や南蛮人が描かれているのは発注者の依頼です。でも同時に皿の裏側には日本的な牡丹模様などが描かれ、高台(底)には大きく日本語で「寿」と記されているのです。「日本製だぞ!」と主張しているようにも見えますね。

コーヒーポット

もう一つ同じような文脈で面白かったのは、三本足の蛇口付きコーヒー注ぎ器「色絵松竹梅鶴文注器」(多彩色で、松竹梅と鶴の文様が描かれた、注ぐための器)。やはり有田産です。大鉢は、日本でも似たようなものがあるので模様だけが特注ですが、こちらの方は日本には存在しない道具なので、形状からして特注です。壺に蛇口がついていたり、三本足は人が担ぐ格好になっていたり。図録によれば「足に人形像のつく造形はヨーロッパの陶器にはしばしばある」のでそれに倣った注文だろうとのことです。そして、日本らしさを付加すべく、「有田では知恵を絞り、着物の男女が団扇を片手に陽気に壺を担ぐ、現実離れした和洋折衷のデザインが完成しました」と、あります。(サントリー美術館『ざわつく日本美術』2021 p.161)

陶磁器は当時の日本の代表的な輸出品で、有田はその主力産地ですが、ヨーロッパ市場で販路を拡大するための企業努力がいろいろ行われていたことがうかがわれますね。オランダは世界中と交易していましたから、中国からの陶磁器、日本からの陶磁器、さらにはヨーロッパ各国も陶磁器技術を高める(オランダのデルフトは16世紀から製造、ドイツのマイセンは18世紀初めに白磁の製造に成功、ウエッジウッドは18世紀半ば、ロイヤルコペンハーゲンは18世紀末から)中でグローバル規模の競争が激しくなっていたのでしょう。

展示されていたこの器が、本当にコーヒーポットか、それともほかの飲料用途かははっきりしませんが、私にとってロマンを感じさせるのは、この有田からの商品を載せたオランダ船が長崎からの帰路、紅海のモカ港に立ち寄り、イエメンコーヒーを積んでアムステルダムに戻った可能性もある、という点です。18世紀にはヨーロッパでのコーヒー文化は既にかなり盛んになっていましたから、オリエンタル情緒に浸るヨーロッパ人が、モカコーヒーを有田焼のコーヒーカップで飲んだかも、という空想は日本人のイエメン研究者としてはなかなか感慨深いものがあります。

物まね洋画

三つ目の注目作品は、重要文化財「泰西王侯騎馬図屏風」でした。これは、洋画の手法で書かれていますが17世紀の日本人の手になるものです。鎖国前、キリスト教に必要な宗教画を書く必要から西洋画法を学んだ日本人がいたのでしょう。そして、図案も「17世紀の初めにオランダで刊行された世界地図の周辺装飾」をもとに制作したものと考えられているようです(前掲図録P.48)。模倣絵ですね。日本人がパリに絵画の留学に行き、自らの図案で洋画を書くのは明治維新まで待たなければなりません。

さて、本来は八人の異国のキリスト教徒の王が描かれている屏風(もともとは襖絵だった、という説もあるそうです)のうち、四人分は神戸市立博物館にあるそうで、こちらには残りの四人がいます。私が注目したのは右から二人目、明らかに肌の色が濃くドーム状の冠をかぶっている王様です。この黒人の王様は誰でしょう。中世ヨーロッパで長く伝説の存在として語り継がれた「プレスター・ジョン」が、エチオピアの国王だと認定されたのが1520年の事(プレスター・ジョン – Wikipedia )なので、ここで描かれているのはおそらくエチオピア王なのだと思います。江戸時代、のどこかの大名のお城の襖絵に馬に乗るエチオピアの王様の絵姿があったなんて、この時期のグローバリゼーションも捨てたものではありませんね。

輸出用漆器

うるし塗りのうつわ、漆器を古い英語ではJapanと呼ぶ、という話は聞いたことがありますね。今ではJapanese lacquerと言わないと正確には伝わらないかもしれませんが、かつては日本の代表的な輸出品であったため、Japanが漆器の総称として使われていた、というのはありそうな話です。陶器もChinaと呼ぶことがありますものね。

日本が最初に参加した博覧会が1867(慶応3年)年のパリ万博でした(まだ大政奉還前なので江戸幕府が参加。翌年明治維新で明治元年になる)。そこで審美眼の高いフランス人が注目したのが蒔絵、漆だったそうです。繊細ですからね。そのことと関係あるかどうかわかりませんが、今回の展示品の中に「松竹梅花鳥蒔絵医療器具入れ」という漆器がありました。図録によれば江戸時代につくられた輸出用漆器だとのこと(前掲図録p.131)。日本的な松竹梅模様だけでなく、犬、鳥、鹿、兎、帽子をかぶった人物などの西洋風の文様が蒔絵で描かれた、複数の引き出しがある細工の細かい小箱です。ただ、蓋の開閉のための真鍮製のボタンや蝶つがいなどの金具はヨーロッパ製らしいし、外箱はバイオリンケースのような革製のものが整えられていて、その底にはパリの著名な製本職人(レオン・グリュエル1841-1923)の店のシールが張られています。

陶器だけでなく、漆器もまた輸出用製品が江戸時代からあったということは新鮮でした。ただ、金具はどこで取り付けられたのでしょう?日本まで金具を送り、日本で漆器に取り付けて、再度輸出したのでしょうか。それとも、日本からは金具なしの漆器を送り、ヨーロッパで金具が取り付けられたのでしょうか。しかしそうだとすると金具を取り付けることを前提として漆器を作らなければならなくなり、複雑な引出しの着いた小箱などはうまく完成品にならないような気がします。

世界の各地から部品を持ち寄り、最終製品にして出荷する、というのは21世紀のバリューチェーン研究の主題の一つですが、この輸出用漆器の金具がどこから来たのか、なかなか興味深いですね。

【2021/8/29 日本の経験、南蛮交易】


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