時代遅れの列車電話?

列車内電話

コロナ下で久しぶりに東海道新幹線に乗りました。一ところにじっとしているのが耐えられない性分なので、久しぶりに新幹線に乗るだけで少し気分が高揚します。

6時ちょうど発の始発列車ということもあり、車内はガラガラ。感染リスクも最小です。その車内放送で「6月30日をもって、新幹線の車内電話は終了しました」というアナウンスがありました。これで、日本国内の鉄道車内電話は消滅したそうです。ちょっと感慨深いものがあります。

列車電話なんてまだあったの?という人も少なくないでしょう。今時使う人はもういない=時代遅れになったから消滅したのでしょうが、これが「新時代のイノベーション」として輝きを放っていた時もあったはずです。そして、それもそれほど遠い過去ではなく。

調べてみると、日本の列車電話は1957年(昭和32年)に近鉄が導入したのが第一号だそうです。国鉄(のちのJR)は1960年(昭和35年)に当時の東海道本線のスター特急「こだま・つばめ」に搭載開始します。今から60年前ですね。東京-大阪間の移動に新幹線ができる前、飛行機なんて庶民には夢のまた夢の時代。東京-大阪間の所要時間は「つばめ」が8時間、「こだま(新幹線の前の在来特急です)」で6時間50分だったそうです。

そしてついに1964(昭和39)年の東京オリンピックに合わせて「夢の超特急」東海道新幹線が開業し、1965年には東京-大阪間は3時間10分に短縮されます。もちろん新幹線にも列車内電話が搭載されます。列車に乗っていながら電話をかけることができるなんて、まさに「近代の魔法」のように受け取られたのではないでしょうか。

すべてが日進月歩の日本の高度成長期、新幹線の列車内電話を使う、当時の「時代の最先端」エリートビジネスマンの姿が目に浮かびますね。

交換台と電話交換手

この当時の列車電話では、外からの電話を「受ける」こともできたようです。というのも、この当時はまだ「交換台」の「交換手」を間に入れて通話者どおしをつなぐシステム(のちにこれは自動交換機になり、今日のような電話のかけ方になります)だったので、列車内にいる人に電話をかけたい人はいったん国鉄に電話をかけ、「こだま〇〇号の△号車に乗っている佐藤さんにつないでください」と依頼したのでしょう。すると、この連絡を受けた車掌が「△号車の佐藤さん、お電話がかかっていますので×号車の電話台までおいでください」とアナウンスする、というわけです。私は、おぼろげにこのアナウンスを車内で聞いた覚えがあり「すごいなあ、新幹線にいる人に電話がかかってくるんだ!」と驚いた記憶があります。

ところで、日本に最初の電話サービスが登場したのは1890年(明治23年)で、これはアメリカでグラハム・ベルが電話機を発明してから十数年しかたっていないのです。明治維新の頃、電信技術については欧米との差はさほど開いていなかったとも言えますね。開業当時のサービスアリアは東京と横浜のみで、当初の加入数は、東京で155世帯、横浜で42世帯のわずか197世帯だったそうです。これが、130年前の話です。(NTT技術資料館)

この当時、電話は交換台で取り継ぐものでしたが、この交換手は当時の女性の花形職業で、これまた近代が作り出した飛び切りファッショナブルな仕事だったようです。開発社会学的には、この職業に就いた人たちと、やはり当時流行し世間の注目を浴びていた「カフェ」の女給になった人たちと、それぞれの社会的なバック九ラウンドの違いを知ることが出来たら、興味深いですね。

コミュニティ電話

電話は当然、庶民にとっては高値の花でしたが、それでも徐々に加入者が増えていき、特に商店では商売上の必要もあり電話を設置する店が多くなります。すると、周辺のコミュニティの人たちはこの電話を活用し始めます。

自分からかけたい時は「お電話貸しててください」と言って利用させてもらい、通話終了後に交換台で「通話料金が〇〇円」と分かるので、その代金を支払うことで借用することができます。しかし、やはり遠慮もあるのでそう頻繁には頼めません。むしろよく利用されたのは「受ける」方だったようです。

1960年代、私は東京郊外に住んでいましたが、まだ我が家には電話はなく両親の郷里の愛媛から、何か緊急連絡があると、近くの米屋さんに電話がかかってきたものです。すると、お米屋さんの奥さんが下駄を鳴らして走って来て「佐藤さん、田舎からお電話ですよ」と声をかけてくれます。すると、母親が小さい弟をおぶって、お米屋さんまで走っていく、というわけです。

お米屋さんにしては、いい迷惑だと思います(距離にして150メートル以上はありました)が、それも「お得意様へのサービス」(もちろん、我が家はこのお米屋さんからお米を届けてもらっていました)として受け止められていたのでしょう。そしておそらくこれは、当時日本全国で日常的に繰り広げられていた光景だったと思います。コミュニティのつながりが電話という器具の「公共性」をぼんやり形作っていたと言えるでしょう。

公衆電話

電話という公共サービスを金持ちばかりが利用するのは望ましくない、ということで誰でも(お金があれば)使える公衆電話が最初に設置されたのは1900年(明治33年)新橋駅と上野駅だそうです。やはり「近代化の象徴=鉄道」と「近代技術の粋=電話」とは相性が良かったのでしょうね。

これは、駅構内に置かれたものでしたが、屋外にも置けるように(かつ通話内容の秘話性も確保できる)ボックス型の公衆電話も翌年京橋に設置されたそうで、このボックスは中国風の六角屋根がついていて「六角地蔵型」と呼ばれており、小金井公園の「江戸東京たてもの園」に実物が展示されています。

いちいちお店の人に電話の利用をお願いするのも面倒なので、1950年代半ばに発明されたのがコイン式の「赤電話」です。これは公衆電話の一種ですが、お店の人が電電公社から借り受けて店先に置き、顧客に利用の便を提供するというコンセプトです。昭和の舞台設定だと、大体「かどのタバコ屋」さんの軒先に置かれていますね。

これによって、自宅に電話を所有していなくても、少なくとも電話を「かける」という行為は多くの庶民に利用可能になったと言えるでしょう。こう考えると、公衆電話とは電話という近代の利便を幅広い層の人にとってアクセス可能にしたという意味で、まさに近代を「公衆」化するものだったと言えるかもしれません。

さて、公衆電話はピーク時の1993(平成5)年には設置台数が93万台を数えたそうですが、それ以降携帯電話の普及(つまり、電話の個人化ですね)につれて減少し、2020年には15万台まで減少しています。多くの人がもう必要としなくなった結果が数字に反映されているので、これも公衆電話が「時代遅れ」になったことを示しているのでしょう。これは、新幹線の列車内電話が廃止されたことと同じですね。使う人がいなければサービスは不要になるのです。

ただ、日本国内には貧困者も増えていて、携帯電話を自由に使えない人も少なくありません。公衆電話の減少が「公共スペース」のやせ細りを意味しないことを願わずにはいられません。

【日本の近代化 2021/8/1】

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