真珠湾

19411207ホノルル号外

日本人とハワイ

8月は、戦争記憶に触れる機会が多いので、ハワイネタが続きます。真珠湾攻撃時の特殊潜航艇(甲標的)とその作戦で戦死した九名の兵士が「九軍神」として祭り上げられ、国民の戦意高揚に利用された話は、いろいろな方向に想像を膨らませてくれます。

日本とハワイは、大平洋戦争前から浅からぬ関係にありました。ペリーの黒船で開国を迫られた日本は、開国と共に「移民送り出し」国になりました。その最初の行先の一つが当時まだアメリカ合衆国に併合される前の「ハワイ王国」だったのです。ハワイに最初の移民が到着したのが改元したばかりの明治元年だったので、彼らは「元年者」と呼ばれよるようになりました。

私も何度かハワイには行っていますが、還暦マラソンにチャレンジした2017年からはハワイと日本の交流史にも興味を持つようになりました。ホノルルの町はずれにある「ハワイ日本文化センター」では、元年者以来の日系移民の歴史をしのぶ品々や資料が展示してあり、なかなか見ごたえがあります。(ハワイ報知社『ハワイ日系パイオニアズ』2012)

第二次世界大戦下のハワイ社会

1941年12月7日の真珠湾奇襲(ハワイとの間には19時間の時差があるので日本では12月8日が開戦記念日ですね)は、アメリカ全土に衝撃を与えましたが、もちろんハワイ社会にも大きな爪痕を残します。そもそも、その頃のハワイには既に多くの日系人がおり、当時のハワイ大学予備士官訓練部隊には500人の青年が所属していて、そのうち75%が日系人だったそうです。開戦後、彼らはハワイ準州警備部隊に吸収されますが、「奇襲攻撃」のショックが大きかったアメリカ社会では日系人に対する反感、警戒感が強く翌年1月には、日系人全員に除隊が命じられたそうです。

また、一般人も「敵性国民」であることから強制収容所に収容された人も多く、終戦まで苦難の時代を耐え忍ぶことになります。ハワイでは、米国人でありながら信用されないという状態から脱するために、1942年2月には日系二世の若者が志願して「大学勝利奉仕団」を組織し、軍に協力した土木事業などを行うことで信用を回復し、これがのちのヨーロッパ戦線での日系人部隊「第442連隊」創設につながるのだそうです。(ハワイの日系人、アメリカの日系人の話や、大統領令9066の話大統領令9066号 – Wikipediaはまた別の機会に)

九軍神は計画されていたのか

さて開戦当初に「銃後」の日本人を感激させ、戦意を高揚させた「九軍神」の成り立ちについて、須崎勝彌氏が興味深い「仮説」を展開しています(須崎勝彌『真珠湾特別攻撃隊』光人社NF文庫2016)。それは、真珠湾攻撃の中で、戦術的にはほとんど意味のないことがわかっていた潜水艇攻撃、それも出撃したら兵員帰還の可能性が極めて低いことがわかっていた作戦を敢えてしたのは、「国威発揚」のためのドラマを必要としていたからだ、というものです。

事実、真珠湾攻撃に参加した連合艦隊の空母から発進する戦闘機たちは、計40発の魚雷を発射し、300近くの爆弾を投下する能力があったのに対し、特殊潜水艇は一艇で二発の魚雷しかなく、そもそも真珠湾内への侵入に成功する確率も低いことが予想されていたので、最大限の成功でも10発の魚雷しか撃てないのです(前掲書p.98)。また、戦闘機は空母でまとめて運べますが、甲標的は一艇ずつ大型潜水艦の甲板に載せて運ばなければならなかったのです。実際には湾内に侵入できたのは一艇のみ、その二発の魚雷はともに的を外してしまいました。そして、実際に五艇とも撃沈、座礁して9名が戦死したのです。何のための出撃だたのでしょう。

須崎氏は、この結果は関係者なら皆予想できたはずだし(事実、潜水艇の乗組員は全員生きて帰還できないことを覚悟していました)、山本五十六連合艦隊司令長官は「兵員帰還のめどのない作戦は実施するな」と言っていたにもかかわらず、実施されたのは当初からこの作戦は「軍神」を作り上げるためのものだったからではないか、と言うのです。

その証拠として、開戦二日前の12月6日に海軍が新たな制度として「抜群の勇敢なる行為ある」場合には二階級特進の制度を創設していることをあげます。「抜群の勇敢なる行為」は当然ながら戦死を前提としています。例えば戦死時に大尉だった人は、中佐になるということです。死んで昇級されてどうなる、と思うかもしれませんが、軍人にとって位階はプライドの源泉であり、また遺族年金にも反映される可能性があります。現に、九軍神はこの制度の適用第一号となり、翌1942(昭和17)年4月に靖国神社で合同海軍葬が行われ「軍神」となるのです。

さらに、須崎はこの「軍神」効果が広く国民にいきわたるためには、彼らが庶民の出身であることが必要だったのではないか、そのため真珠湾作戦に選ばれた10人の中には都市出身者は含まれておらず、さらにそれぞれの出身地は全国に分散されている、と主張します。実際、この合同葬以降、「軍神詣で」が流行し近隣の児童生徒が地元に近い「九軍神」の生家を訪問し遺族に敬意を払うということが行われ(9人の出身地は群馬、三重、岡山、広島、鳥取、島根、福岡、佐賀、鹿児島)、神社建立のはなしもあったようです(同p.155)。すなわち、これが本当に海軍のシナリオだったとすれば、その作戦は上々の成果を上げたと言えます。

走り出したら止められない

この作戦が実施されてしまった背景には、須崎の指摘する「戦意高揚」があった可能性は否定できません。しかし、そうしたいわば「ポジティブ」な理由以外にも、陸軍と海軍の勢力争い、海軍内の航空機部隊、戦艦部隊、潜水艦部隊などの勢力争いといった事情があり、「組織のロジック」のゆえに無謀な作戦を実施せざるを得なかった、という側面もあるように思います。

こうした組織のしがらみゆえに、性能が十分に整えられていない兵器(甲標的・特殊潜水艇)を、とにかく実践に投入しなければならなかった、という止められない流れもあったのでしょう。しかも、そこには「忠君愛国」精神にあふれ、自らその無謀な作戦に参加することを志願する若者が用意されているのです。

戦争末期の「神風特攻隊」と同じようなロジックがこの戦争の第一日目から通用していたことになります。だとすれば、カミカゼは劣勢挽回のための窮余の策として出てきたのではなく、戦争の初日から「天皇陛下の軍隊」にはこうした作戦を不可避なものとする構造が刻印されていた、ということになります。

これは、遡って満州事変(1931・昭和6年)への突入にも共通するし、さらに言えばコロナ下で強硬開催した東京五輪にまで脈々と流れる日本国民の宿痾なのかもしれません。

【2021/8/25 日本の経験、第二次世界大戦】

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