【ブライトン特急・8】《Inverness》

 ロンドンに来たら、シャーロックホームズの痕跡を訪ねたいというシャーロキアン(Sherlockian)は少なくありませんね。そのシャーロックホームズのトレードマークになっているケープ付きのコートはインバネス《Inverness cape》と言います。

 インバネスはスコットランドの北の町の名で、ネス湖の出口に当たるところです。昨年(2010年)の寒波の時にはマイナス20度以下になっていたくらいで、このあたりはスコットランドでも気候が厳しく、雨も多いのでコートが発達したようです。 このインバネス・コートの特徴は袖がないこと。自由に腕が動かせるように袖ぐりが大きく開いています。そして、そのままでは寒いので上から羽織るケープがセットになっています。これは冬の雨の日でもバグパイプ奏者(piper)の演奏が出来る工夫ためのものだったようです。

   このコート、幕末から明治にかけてのかなり早い時期に日本に輸入され、昭和になるまでかなり流行したようです。コートとケープが二重になっているので「二重廻し」とも、着ている姿から「トンビ」とも呼ばれていましたが、宮沢賢治の小説や詩には「イムバネス」で登場します(『注文の多い料理店』にも出てきたのではないでしょうか)。

 この「イムバネス」という謎めいた言葉が、小学校の頃から私には長年気になっていました。そもそもなぜ文明開化の日本で、遠くスコットランドのコートが流行ったのでしょう。実は、これは明治の人々の「選択的適応」の一つの例だったのです。文明開化をしても庶民はまだまだ和服を好んで着ていましたが、洋装とともに入ってきた防寒具である「外套」が結構格好良く見えたので、「ざんぎり頭」とセットで着てみようと思ったのでしょう。 

  しかしコートは本来洋服ですから、これをたもとのある和服の上から着ようとしても、袖が邪魔になって通りません。ところが、インバネスには袖がなく、その上ケープがあるので和服の上に着るコートとしてはおあつらえ向きだったのです。まるで、和服のために作ったような外套です。もちろん、スコットランドの人たちはこんな使い方があるなんて思いもしなかったでしょうが。この結果、賢治の「冗語」という詩には「電車が着いて/イムバネスだの/ぞろぞろあるく」という一説が出てくるくらい普及したようです。今でも、男性の和装の時の防寒具として細々と命脈を保っています。

 この、インバネスは布地に油を含まて撥水加工(water repellent)することが標準になっているそうです。それはそうですね。バグバイブを演奏しながらは傘がさせませんから。というかパイパーに限らず、イギリス人はあんまり傘をささないみたいです。英国紳士は「シルクハットにこうもり傘」というステレオタイプがありますが、そんな格好の人は、私は一冬で一人しか見ませんでした。だいたいイギリスの雨はほとんどが「しとしと雨」なので、帽子をかぶってちゃんととしたコートを着ていればよほどのことがない限り中までずぶ濡れということはまずありません。

 撥水加工でもよりもさらに防水性の高い(waterproof)コートも天気の悪いスコットランドで発達したようで、1822年にチャールズ・マッキントッシュという人が「ゴム引き布地」を発明し、1830年にこの布地を用いたコートの会社を設立。その防水性の高さから陸軍や国鉄で採用され、マッキントッシュ(Mackintosh)は防水コートの代名詞となったようです。

  私も、せっかくなので一着マッキントッシュを買ってみました(日本人には有名なアクアスクータムのトレンチコートよりちょっと値が張ります)。ゴム引きなのでゴムのにおいが気になりますが、多少の雨なら傘なしで良いので結構快適です。 ただ、襟裏のラベルに「Made in Scotland」と書いてあるのには驚きました。スコットランドは大英帝国の一地方に過ぎないというのが、普通の日本人の感覚ですから、これは日本製の商品なのに「Made in Osaka」と書いてあるようなものじゃないかと思ったのです。でも、違うのですね。この話はまた別の機会に。【2011/5/28】

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