仁和寺
御殿で写真展
友人の写真家平寿男さんが、京都の仁和寺で「祈りの聖地」と題する写真展をする、というお知らせをくれました。仁和寺と言えば888年宇多天皇開基の真言宗御室派の総本山で、世界遺産だそうです。境内に写真展用のホールのようなものがあるのかな、と最初は思いました。
しかし、お知らせはがきには「会場:仁和寺御殿 白書院、黒書院」と書いてあります。御殿で写真展?どんな展示になるのかと、まずは出かけていきました。展示するのは、彼が撮りためてきた熊野古道と沖縄の御嶽(うたき)の写真、いずれも「祈り」の場の写真です。
コロナ下とはいえ、さすが京都の名刹ですからそれなりに観光客はいます。立派な山門(二王門・重要文化財)を入ってすぐに拝観料窓口があります。いろいろなコースがあるのですが、一番基本的な「御殿・庭園」のチケット(800円)を買えば、それで展示会場にも入れる仕組み。左手にある「本坊表門」(これも重要文化財)をくぐると、御殿エリアに入ります、
御殿入り口で靴を脱ぎ、検温とアルコール消毒をして御殿に入ります。そこから右に進んで渡り廊下を渡ると、白い砂利を敷き詰めた日本庭園の「南庭」が見えてきます。その庭の西側に、庭を眺めるように配置されているのが「白書院」で、和室が三つ庭に面して並んでいます。それぞれに金箔の襖絵が描かれていて、普段は外から眺めるだけなのですが、今回は、これらの和室が「展覧会場」なのです。ちなみにこの襖絵は、明治から昭和にかけて活躍した日本画家福永晴帆(せいはん:1883-1961)の描いた、四季の松だそうです。松永は明治41(1908)年伊藤博文に随行して朝鮮、北京、上海を巡遊、1910年には香港から英国に渡りヴィクトリア美術学校で学んだ後、さらにパリで水彩、油絵を学び、大正4(1915)年に帰国したそうです(福永晴帆 :: 東文研アーカイブデータベース (tobunken.go.jp))。襖絵を描くのは伝統的な日本画家、という先入観がありましたが、明治期の画家は日本画の素養の上に西洋画の技法も身につけようとしたのでしょう。
和室に写真を展示する
さて、最初の部屋を見たときびっくりしました。緑濃い熊野古道の写真が大きくプリントされており、それが書院の畳の上にじかに立っているのです。観客は庭側の廊下を歩くわけなので、そこから部屋を見ると正面と左右は襖絵です。その前に、写真が一枚ずつ鎮座しています。
普段は部屋の入り口に結界(台付きの煤竹が横になっているもの)が置いてあるので、拝観客は部屋の中に入れませんが、今回は結界が写真の前にあるので、そこまでは入れるのです。つまり、畳の上にじっくり座って大きな写真と正対できるのです。
平さんに聞いたところでは、最初は畳の上にイーゼルを立て、その上に写真を展示してみたそうです。ギャラリーなどで行う写真展で、壁に直接展示できない場合には普通にやる方法ですね。ところが、背後に金箔の襖絵があるので、まったく「負けて」しまうのだそうです。
そこで、イーゼルはあきらめていつもの倍のサイズに焼きなおし、畳の上に置き、煤竹で特注した支柱で後ろから支える方法にしたとのこと。これが、とても素晴らしい効果を発揮していました。こうした展示方法自体が、書院造の建物という場を利用した一種のインスタレーションだと思いました。(インスタレーションについてはインスタレーション – Wikipedia )。
特にすばらしかったのは、絶壁の描かれている襖絵を背景に、巨石の前に置かれた鳥居の写真が置かれていた空間でした。写真と奥の襖絵とが呼応するように感じられたのです。写真を単体ではなく、それが置かれた空間と一体化させて、その空間を演出する、まさにそうした実験をこの「白書院」で平さんはやってのけたのです。
白書院・黒書院・宸殿
再び渡り廊下を渡ると左手に黒書院、右手に宸殿があります。白書院では熊野古道の写真が展示されていましたが、黒書院では、沖縄の御嶽の写真が展示されており、そのうちの一室は大きなスクリーンで熊野の写真、沖縄の写真それぞれのスライドショーが上映されていました。黒書院の方は六室あり、襖絵や腰板絵などは全て大正から昭和にかけて活動した京都生まれの日本画家堂本印象 (いんしょう:1891-1975年)が描いたそうです。
宸殿は、いわゆる母屋ですが、もともと宸は「天子の住まうところ」という意味です。宇多天皇が譲位して法皇となってから仁和寺に住んだのでこう呼ばれるのかもしれません。この宸殿は大広間三つからなっていて、真ん中の部屋では将棋の公式戦が行われることもあるようです(今年10月には藤井聡太三冠対豊島將之竜王の竜王戦が行われるとか)。今回は、宸殿の二つの広間でモダンアートの展示もなされていました。宸殿の襖絵、壁画はすべて 明治-大正時代の日本画家原在泉(ざいせん:1849-1916)の手になるもので、四季の風景が描かれています。
この宸殿は北に面しており、その眼前には「宸殿北庭」が開けています。「南庭」が枯山水であるのに対して、こちらは池も築山もある日本庭園です。そして築山の向こうには五重塔(重要文化財)も見えます。この庭は国指定名勝だそうで、こんな庭を見ながら将棋を指すのは、気持ちよさそうですね。わたしは、広間のある日本家屋とその前庭を見るたびに、「こういうところでセミナーや講演会をしたら楽しいだろうなあ」と思ってしまうのです。お寺のお堂でも同じようなことを考えることがあります。
明治時代の日本庭園
今回も宸殿北庭を見ながらそんなことを夢想していたのですが、私が「日本庭園とセミナー」というイメージを形成したきっかけは、六本木にある国際文化会館(通称アイハウス)でした。現在では国際的なセミナーやパーティーなどにも使われているこの建物は立派な日本庭園に面していて、メインのセミナールームのカーテンを開けると、庭が一望できるのです。もちろん、庭でカクテルパーティーなども出来ます。
こんな庭が欲しいなあ、と行くたびに思うのですがもちろん庶民の手が及ぶものではありません。この場所は江戸時代は多度津藩の江戸屋敷だったものが、廃藩置県後井上馨(侯爵・外務大臣)の手に渡り、その後持ち主は変転して、最後は三菱財閥の岩崎小弥太の所有だったという折り紙付きの物件です(戦後国有化されたのち、国際文化会館に払い下げられます)。
そして、このアイハウスの素敵な庭の改修を設計したのは小川治兵衛(1860~1933年)という人です。日本庭園は、平安時代に寝殿造りとセットとなって以来、貴族の粋を凝らす対象となり独自の発展を遂げました。江戸時代には、家康に仕えた大名であると同時に、千利休に師事した茶人でもある小堀遠州(こぼりえんしゅう:1579-1647)が、多くの庭を設計したことで有名です。仁和寺のご近所にある有名な龍安寺の石庭も小堀遠州の作ではないかと言われているそうです。
さて、明治維新後、日本には近代化の波が押し寄せますが、日本画が西洋画の影響を受けつつも、日本画として独自の展開を遂げたように、日本庭園もやはり近代の波をくぐり抜けて「日本らしさ」を追求し続けていたのです。そうした明治期の代表的な作庭家が小川治兵衛(通称・七代目植治)なのだそうです。この話は、友人のランドスケープ・アーキテクト(作庭家と訳しても良いですね)にして、米国ポートランド日本庭園の責任者内山貞文さんからの受け売りです。
明治期、大名から新興貴族や新興財閥に財力が移り、東京の大名屋敷(上屋敷、下屋敷)が売りに出されたりすると、家屋の改修とともに庭の手入れも必要になります。その時代に活躍したのが七代目植治、ということですね。岩崎家の庭の手入れを任されたのも植治ですが、実は仁和寺の庭も植治の仕事なのだそうです。
仁和寺は、明治20(1887)年に大半の建物が消失する火災にあいました(日本の寺社仏閣は火災にはとても弱いのです)。その後1890年から1914年にかけて亀岡末吉(社寺建築専門の建築家:1865–1922年)の設計で、宸殿など六棟が新築され、これに合わせて宸殿北庭も植治が改修設計したのだそうです。どうやら私は、植治の作った日本庭園を見ると、そこでセミナーをしたくなるようです。
【2021/9/27】(日本の近代化)
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