【ブライトン特急・46】《Unprecedented》

         こちらの報道を見ていてしばしば登場する言葉の一つに「空前の、前代未聞の」(unprecedented)があります。日本語にするとちょっと大げさではないかと思いますが、視聴者にインパクトを与えるには良いのでしょう。「初の」(First time)も頻繁に使われますが、そのあとに「過去10年間で」とか「2001年以来」などの限定がつきます、日本語なら「10年ぶりの」というところですが、「初の」と言った方が聞き耳たててくれるのでしょう。

         世界中の報道は「お上の伝えたいことだけ伝える」か「視聴者の見たいことを伝える」の両極端のどこかに位置するわけですが、BBCを見ていると、この両極端が混在しているように思います。

         2011年3月11日の報道は、こちらでも衝撃的でした。日本とは時差が9時間ですから、日本での地震発生(午後2時半)はこちらの早朝5時半。朝のニュースからはずっと破壊的な(devastating)津波の映像が繰り返し流れていました。BBCの24時間ニュースチャンネルも地震発生から3日間はほとんどが震災関連のニュースで、その他のニュースは一時間に5分程度ずつしか流されませんでした。

        こうした映像を見たイギリス人があたかも日本全体が津波に襲われたような印象を受けたとしても不思議ではありません。大学でも、行きつけのお店でも、私が日本人と知っている人は皆一様に「大丈夫か」と声をかけてくれました。 そして状況が少し落ち着いてくると、地震による建物の被害は少ないものの津波が想像を絶するものであることがわかり、そうした危機的な状況でも日本人はパニックになっていないことを賞賛する報道がちらほらと見られるようになりました。

        他方、福島原発の問題は、日本国内以上にセンセーショナルに伝えられ始めます。特に発電所の建屋が爆発したシーンは、日本国内ではしばらく放映されなかったようですが、こちらでは真っ先に報道され、それ以後三ヶ月たった今でも、原発問題のニュースの冒頭にはこの映像があたかも昨日のことであったかのように流されます。こうした繰り返しによる刷り込み効果はかなり恐ろしいものがあります。

         さて、一週間ほど日本の震災がトップニュースであり続け、人々も少し飽きてきた頃、英米によるリビア空爆が始まりトップニュースはこちらになりました。私は「日本は危険だ」という印象を再生産する原発ニュースがトップから降りて少しほっとしたものです。とはいえ、リビア報道は「政府の伝えたいことを伝える」パターンの典型です。

        伝えられる報道は「カダフィがいかに非民主的な人物か」というイメージを強化するための情報のオンパレードで、軍事介入理由はEUがアラブ連盟に要請されたからであり、「文民(civilian)をカダフィが空爆しているので、これを守る道義的義務がある」、というロジックを裏書きするような報道ばかりが目立ちます。ここでは反カダフィ派も武装していること、カダフィをサポートする民衆もいることは、ほとんど無視されているように思えます。

         この一連の報道を見ていて再確認したのは、報道する際の「枠組み(framing)」の力です。所詮報道では、視聴者が理解できること、見たいと思っていること、しか伝わらないのです。津波の報道に心を痛め「何か支援は出来ないのか」と募金に向かうイギリス人はとても多いのです。そうした人たちには「けなげに耐える日本人」の姿はとても自然に受け入れられます。途上国に支援しても「役人にピンハネされる」可能性があることを知っている人たちは「支援に値する人たち」の姿を見たいのです。同様に原子力問題に関心の高い人々は「いかに原子力が危険か」の実例を日本に見たいので、発電所の建屋が爆発するシーンが象徴的に受け入れられやすいのです。

         イスラム教徒のヨーロッパへの影響力の拡大は、自分たちの生活を脅かすと感じている人たちにとってはイラスム急進派に資金援助しているといわれるカダフィが「やっぱり悪い人だった」という報道は、すとんと腑に落ちるのです。空爆が長期化して人々に厭戦気分が広がりつつある頃、突然西側メディアが「カダフィの傭兵は反カダフィ派の女性をレイプするように命じられている」という報道を仕掛けました。私にはこれは明らかに視聴者の「反カダフィ」心情を再確認させるためのキャンペーンに見えました。自分たちの支援している人たちが「善人」で「被害者」で、攻撃している相手は「悪人」で「加害者」だという構図の再生産です。

         現代の日本では、こうしたあからさまな「勧善懲悪」の報道はあまり視聴者に受け入れられないと思います。その意味では視聴者の見識が成熟しているといえますが、逆に社会に「正義」が共有されにくい現状の反映かもしれません。イギリスでは社会の本流を作り上げている人たちの間には、公共部門と民間部門、政府とNGO、保守党と労働党、高所得層と低所得層という違いはあっても、「キリスト教的正義」というベースはしっかりと共有されているように思います。

        このベースを共有しない我々は、そのベースに無理に同化しようとするよりも、彼らの姿勢を相対化し、彼らが暴走するときにはそれを指摘する役割が求められているのではないでしょうか。非西欧、非キリスト教世界の人々にとっては自然なことであっても、西欧キリスト教世界の人に取っては理解しにくいというだけの理由で、簡単に「前代未聞(unprecedented)」とラベリングされ、それが世界の世論を支配する事態は決して望ましい世界には結びつかないと思うのです。【2011/7/5】

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