【ブライトン特急・39】《NHS》
「ゆりかごから墓場まで」というのは、福祉国家を表現する決まり文句ですが、それを支えている政策が国民保健サービス(National Health Service: NHS)です。目指されているのは医療ニーズがある人には完全に無料でサービスを提供するという原則で、半年以上イギリスに合法的に滞在する限り外国人にも適応されるので、日本人の留学生でもこの制度の恩恵に浴すことが出来ます。
1948年設立のこの制度は、医療サービスへのアクセスは社会的、経済的な立場にかかわらず公平に提供されるべきだという理念に基く、きわめて社会主義的な制度とも言えます。容易に想像されるように政府の財政を大きく圧迫する原因ともなっていますが、サッチャー政権も含めて60年以上この制度を維持しているのはイギリスの国家としての理想主義、プライドのなせる技でしょう。立派だと思います。
医療制度や医療保険制度は、アメリカのような完全に民間ベースの制度から、このNHSのように完全国営の制度まで国による違いが非常に大きく、日本は国民皆保険の制度下で医療サービス自体は民間に依存する中間型といえるでしょう。それぞれの国がどのような制度を選ぶかは、単なる財政政策の問題ではありません。むしろその社会の文化、弱者へのまなざし、公共と民間の棲み分けに関する哲学などに影響されて決まるものであり、また逆に制度が一度固まればその社会の文化や哲学、人々の行動様式にも影響を与えるものとなります。途上国の医療制度改革がなかなかうまくいかないのも、単なる財政政策のレベルでしか議論していないからではないかと思います。
さて、イギリスのNHSの核となるのは一般医(General Practitioner: GP)と呼ばれる地元の医師で、基本的な疾病の診察・治療・予防などを担当しています。同時にGPはNHSシステムのゲートキーパーの役割も担っていて、すべての国民は必ず(徒歩圏内の)GPを選んで登録しなければなりません。 日本では普段は地元の「かかりつけ医」にお世話になっていても、気に入らなければ自由に別の医者に行くことが出来ますし、直接大病院に行くことも出来ますね。ところがNHSの制度の下では、患者にはそのような自由はありません。
まずはGPに予約をして診療してもらわなければ、いかなる医療サービスにもアクセスできないのです。GPが必要と認めた場合にのみ、専門医(Consultants)を紹介してもらえます。 こうした制度であれば、日本のように「病院のはしご」をしていたずらに病院の混雑を悪化させる人は発生しませんが、逆に「セカンド・オピニオン」を求める機会も失われてしまいます。この点はイギリスでも議論になっているようですが、それ以上に問題視されているのが「サービスの質」と「高コスト体質」です。
まず、医療従事者の側には日本のような「ポイント制」がないので、たくさんの患者を扱ったり、良いサービスをしたりしても給料が増えるというわけではありません。この結果、「診察順番待ち」が長過ぎるというクレームが頻発しています。また、GPのみならず、看護師その他のスタッフもすべて公的機関で雇用することになり、財政を圧迫しています。
2010年からの保守連立政権の目玉は「支出削減」(Spending Cut)で、当然のことながらNHS改革、競争原理の導入も真っ先にうたわれているのですが、GPや看護師たちの連盟から様々な異論の声が上がり、2011年には専門家の諮問を受けて「再検討」を迫られる事態となっています。それにしても、なぜこのような「社会主義的」政策がイギリスという自由主義経済の発祥国で維持されているのでしょう。
一見矛盾しているように見えてもこの事態、実はむしろ自然なのかもしれません。産業革命が発生したマンチェスターでまず貧困対策が始まったように、また世界にさきがけて、労働者の健康保護を目指した「工場法」がイギリスで成立したように、資本主義の発展は「公共セクター」からの支援とセットでなければバランスがとれない、ということをイギリス人は感覚的に納得しているのではないでしょうか。
これは貧富の差をなくすことを目指すのではなく、貧富の差があることを前提とした階級社会を維持するための知恵なのかもしれません。そう思えば、道路清掃人、警官など公共セクターにやたらにたくさんの人が配置されていることも納得できるような気がします。【2011/6/28】
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