【イエメンはどこに行く・6】《南北イエメン分断史》
現在のイエメン政治における二大問題のもう一つは南部イエメン分離派です。この南部分離派の背景を理解するために、まず100年にわたる南北イエメン分断史をおさらいしておきましょう。
そもそも南北イエメンが分離したきっかけは、イギリスが作りました。19世紀前半にスエズ運河からインド洋に抜ける海路の要衝アデン港を保護領としていたイギリスは、自らの中東地域における権益を守るために、20世紀初頭にこの地域に名目的な宗主権を持っていたオスマントルコとアラビア半島分割条約を結びました。その分割線はアフリカの国境線同様きわめていい加減なもので、紅海の入り口バブアルマンデブ海峡からペルシャ湾のバハレーン島までを一直線に結んだのです。
しかし、その頃実際にイエメン北部を支配していたのは、イスラム教ザイド派のイマームであり、トルコではありませんでした。そしてイマームはイギリスに支配されている南部イエメンを含めたイエメン統一を目指していました。ところがこのイマームの頭越しにイギリスとトルコが勝手に南北イエメンを分断したわけです。以来、南北イエメンの統一はイエメン人の悲願となりました。
第一次世界大戦の敗戦でオスマントルコ帝国は凋落し、トルコの宗主権から離れた北イエメンは「イエメン・ムタワッキル王国」として国際社会に認知されました。一方アデンは「世界で2番目に船舶寄港数の多い港」となって大英帝国の拠点として栄えていたため、イギリスはアデンの周辺地域へも支配を拡大していき、南イエメン全域がイギリスの保護領となりました。
こうして第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間、アデンはアラブ地域の先進近代都市となり、教育水準も向上して北イエメンとの国境地域(タイズ周辺)からも多くの移民が流入し始めました。アデンで教育を受けた人々の中には、さらにアデンから船に乗って世界に飛び出した人々も多く、イギリスのリバプール、アメリカのデトロイト、カリフォルニアなどにはこの頃から「イエメン人コミュニティー」が出来はじめます。他方、北イエメンでは鎖国政策が敷かれていたため、様々な側面で近代化が進まずアラブで最も遅れた国になってしまいます。こうして「進んだ南、遅れた北」という構図が成立します。
第二次世界大戦後、多くの英領植民地は独立しましたが、アデンの重要性からアイギリスは南イエメンを手放しませんでした。かたや、アラブ世界ではエジプトにナセル大統領が登場し、アラブ民族主義・アラブ式社会主義の理念を多くのアラブの若者に訴えました。これを受けて北イエメンでは1962年にイマームを打倒する軍事革命が発生し、サナアを首都とする「イエメン・アラブ共和国」が誕生します(9月26日革命)。このとき、革命政権はアデンもイギリスの手から奪って統一イエメンを実現しようとしていましたし、アデンにもこれに呼応しようとする勢力がありました。
しかしイギリスはアデン(南イエメン)の分離を許さず、かつイマーム王政が打倒されることに危機感を抱いたサウジアラビア、ヨルダンなどのアラブ王政国家が、逃げ延びたイマームを資金的・軍事的に支援したため、北イエメンでは「王政派対共和国派」の内戦状態になります。このため、革命政府は南イエメンのイギリスからの奪回に力を割くことが出来なくなります。
他方、アデンではブリティッシュ・ペトロリアム(BP)製油所の労働者などが中心となって反英独立闘争が活性化し、1963年には南北イエメン国境に近いアブヤンで最初の武力行動が始まります(10月14日革命)。当初イギリスはこうした動きを武力で押さえつけていましたが、最終的には労働党政権下でスエズ以南の植民地放棄を決断、南イエメンも1967年に独立するスケジュールが決まりました。イギリスは南イエメンの穏健派に政権を委譲しようとしていましたが、ナセル・エジプト大統領の支援を受けた社会主義者たちが独立直前にアデンの実権を握り、彼らを中心に11月30日に「アラブ唯一の社会主義国家」として南イエメンは独立します。
この時、すでに存在する「イエメン・アラブ共和国」に合流しようという動きもあったのですが、当のサナアは「王党派」の攻勢で包囲され、「共和国派」が陥落寸前という状況でした。この包囲は70日続いた共和国派最大の危機でしたが、ナセルのエジプトと、独立したばかりの南イエメンからの援軍を得て包囲を破ることができ、これを契機に王党派は衰退していきます。
こうして1969年ころまでには北イエメンの内戦は共和国派優勢で収束し、晴れて南北統一を考えることが出来ようになりました。ところがこの間に独立したばかりの南イエメンでは政治路線対立が続き、社会主義化政策が先鋭化したために、比較的穏健なサナアの政策とはどんどん乖離していきました。そして1970年代には数次の南北イエメン国境紛争・内戦が発生してしまいます。これは東西冷戦と無関係ではありませんが、朝鮮半島とは異なります。南イエメンは東側陣営ですが、北イエメンもソ連からもアメリカからも軍事支援を受けて「援助のオリンピック」状態を保っていたからです。
1983年を境に南北内戦は鎮静化し、北のサレハ大統領と南のアリー・ナーセル大統領との間で友好関係が築かれ、南北統一も議題に上るようになりました。ところが、アリー・ナーセル大統領の対米接近路線に対して南イエメンの支配政党「イエメン社会党」内で反対意見が強まり、1986年にアデンで内紛が起こり、アリー・ナーセルは失脚してしまいます(1月13日事件)。
南イエメン政権は、再度社会主義路線を強化しようとしますが、すでに東ヨーロッパの動揺は進み、1989年にはベルリンの壁が崩壊しました。東側陣営の後ろ盾を期待できなくなったイエメン社会党はこのままでは政権維持が困難と判断し、自らの影響力を守るために南北イエメンに踏み切ることにしたのです。これが、1990年5月22日。東西ドイツの統一よりも半年早い「無血統一」でした。
イエメン人の意向を無視したイギリスとトルコの国境線画定から約90年、悲願の統一を果たして新生「イエメン共和国」の大統領に就任したサレハ大統領は、こうしていったんは全国民のヒーローとなったのです。【佐藤寛 2011/6/20】
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