【もし今漱石がロンドンにいたら・1】《倫敦漱石記念館》

         先日(2011年5月21日・快晴の土曜日)、念願の「ロンドン夏目漱石記念館」に行きました。場所はロンドンの南東の外れ、地下鉄のクラパム・コモンという駅の近くです。私の家からはバスで20分ほど。漱石は二年ほどロンドンに住んだのですが、その最後の一年数ヶ月を過ごした下宿の「真向かい」の一フラットを借りて、恒松さんという英文学者が個人のポケットマネーで運営している「私設博物館」です。入場料は4ポンド。夏の間だけ開館しています。

      なぜ「念願」だったかというと、実は私がサセックス大学に在籍しながらロンドンに住んでいる理由の一つが、「漱石のロンドン暮らしを追体験する」ということにあるからです。

      漱石は今から111年前の明治33年(1900)年に文部省の国費留学生としてイギリスに渡りました(年額1800円を給する、という辞令が展示してありました)。その旅程も私には興味深いものです。9月8日に横浜からドイツの客船「プロイセン号」に乗り、シンガポールなどを経由して一ヶ月後の10月8日にアデン(イエメンの港町ですよ・当時は英国植民地で世界で2番目に寄港船舶数の多い港でした)、その後スエズ運河を通って10月19日にはイタリアのジェノバで下船。そこから鉄道でパリに行き、ちょうど開催中だったパリ万博(エッフェル塔が出来たときですね)を見物。そしてドーバー海峡を渡って10月28日にロンドン・ビクトリア駅に到着しています。ドーバーから列車だったのですね。これは知りませんでした。

        そして1902年の12月5日に今度はロンドンテムズ川のアルバート埠頭から日本郵船の「博多丸」で帰国の途(1903年1月13日神戸着)につくまで2年1ヶ月ロンドンに滞在したわけです。この間漱石が「神経衰弱」(今で言えばノイローゼ、あるいは鬱でしょうか)になったことは有名です。下宿の一室にこもって泣いている姿を見た別の日本人が、文部省に「夏目狂せり」と電報を打ったと言われています。

         なぜノイローゼになったのか、それは当時世界の絶頂を極める大英帝国の首都ロンドンにあって、日本人であることの意味を真剣に考えてしまったからではないか、と私は考えています。そのときの煩悶が「現代日本の開化」という講演に凝縮されています(講談社文庫『私の個人主義』所収)が、拙著『開発援助の社会学』をお読みになった人はご存じでしょうが、私はこの漱石の煩悶は、今日の日本の開発学を考える際には基本になる問いだと思っているのです。非西欧の日本が、近代化をするときに何を失い、何を苦悩したのか。それこそが、今日の途上国の開発問題を考える際に、「日本が出来る貢献」の核だと思うからです。

         で、私がロンドンで漱石を追体験するに当たって、検証しようと思っているのは「今のロンドンなら、漱石はノイローゼにならなかったのではないか」という仮説です。

         漱石は日本人としての誇りを持っていましたし、日本人の中でも自分は日本を代表する知性の一人だと考えていたと思います。近世日本の知識人として幼少時から漢籍に親しんでいながら漱石は、文明開化の潮流の中で大学で英文学を学ぶことにします。しかし卒業して英語教師をしながらも、「西洋の物まね」に終始する当時の日本および日本人に対しては本能的な違和感を感じていたようです。その漱石が文部省の留学生に推挙され、ロンドンに来てイギリスの良さも悪さも学びつつ、結局「ロンドンに住み暮らしたる二年はもっとも不愉快の二年なり」(『文学論』序文)と述懐しているのです。日本と西洋の対比を日々意識していた漱石ならでは、ではないでしょうか。

         衣食住すべてが自分の三十年来慣れ親しんできたものとは違うのです(留学時漱石は34才です)。そして、漱石はイギリス人の容姿風体、立ち居振る舞いをまねして「洋行帰り」をひけらかすための努力など、はなからする気はなかったのです。故郷に妻子を残して来ている(漱石の留学中に第二子が生まれています)ので、ホームシックもあったでしょうが、それは主要因ではないと思います(根拠はありませんが、漱石が妻に送った手紙などからみると結構寂しがってはいても泣き言は言ってません)。

         不愉快の原因は、西洋における「日本」の不在、あるいは「無視」ではなかったかと思います。これが私の仮説の基礎です。
         当時、日本はまだ東洋の途上国です。日清戦争(1894年)に勝って近代的軍事強国として認められ始めたとはいえ、たいていのイギリス人にとっては多くの植民地と大差ない理解でしょう。日露戦争に勝って、「東洋の国が西洋に国に勝つことがある」という衝撃を与えたのは1904年、漱石の帰国後です。日英同盟が結ばれたのが1902年1月なので、漱石の滞在中ですがこれはまだ多くのイギリス人にとっては意識の外であったでしょう。そんなロンドンで生活していて、漱石はノイローゼになった。

         だとすれば、今のロンドンに漱石がいたらノイローゼになるか。「ならない」と私は思います。なぜなら、今のイギリスには「日本」が存在しているからです。単に日本人のビジネスマンや、留学生や、観光客がいるという意味ではありません。イギリス人の思考や、信条とは無関係に「日本」「日本的なもの」が風景の中に溶け込んでいるのです。もちろん、その溶け込み方に漱石なら「間違っている」という憤慨をしこたま爆発させはするでしょう。でもノイローゼにはならない。

         というようなことを、私は先日の夕方(午後九時過ぎですから夜ですが、まだ周りは明るかったので夕方です)、ピカデリー・サーカスの「ジャパンセンター」で閉店間際で半額になっていたコロッケパン(それでも一ポンド=135円)と日本のペットボトル入り飲料(日本なら100円ちょっとですが、ロンドンで買うと320円)を、セントジェームス公園のベンチ(金曜日だったので芝生でたくさんの人がピクニックのように酒盛りしていました)に座って、食べながら考えていました。漱石だって、ノイローゼになりかけたときに、あんパンと日本茶のペットボトルをここで食べることが出来たら、きっと元気になったのじゃないか、と。 【2011/6/9】

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