【ブライトン特急・45】《Title》
突然「あなたのタイトルは?」と聞かれたら何のことだかわからず戸惑いますよね。こちらではインターネットでセミナーの予約をしたりチケットの購入などをする時、必ずこれを聞かれます。初めてこの問いに直面したときにはなんと答えて良いのかわからないのでプルダウンメニューをクリックしました。そうしたら、Mr/Mrs/Missなど見慣れた言葉が並んでいたのでほっとしたのですが、その下にもたくさんの肩書き(title)がずらりと並んでいます。
Dr.(博士)、Professor(教授)は日本では日常的には姓名に関係ありませんが、こちらでは宛名書きなどにも不可欠なようです。MsはMr.の女性版で、女性だけが既婚未婚の区別を表明しなければならないのは不当だという主張から登場した肩書きですね。ここまでは、なんとかわかります。しかしそのあとはSir, Lord(卿), Dam, Lady(卿夫人)など貴族階級を示す尊称、さらにRev(尊師)、Sisterなど宗教関係の尊称が続きます。インターネットの申し込みフォームでも、少なくともこれくらいのバリエーションを用意しておかねばならないのです。
おそらく厳密にはもっとたくさんの尊称があるのでしょう。なぜこんなにたくさんの尊称があるのかと言えば、それは階級社会だからです。今でも、女王陛下の誕生日前後には新たな爵位授与の発表があり、これらの尊称を持つ人が再生産されているのです。そして、大学では毎年たくさんの博士を生産しています。もちろんこうした特別な肩書きを必要としているのは全人口のほんの数パーセントなのですが、こうした人たちが、せっかくの特権を出来る限り強調して、何とか「凡人」と差別化したいという欲求を持ったとしても不思議ではありません。
ところで、こうした肩書きを見ていて気づくのは、階級差の強調もさることながら、性差を明確にする肩書きが多いこと。日本では宛名書きは基本的に両性ともに「様」で大丈夫ですが、こちらでは性差をとても重視しています。Sirの奥さんはDamですし、Lordの奥様はLady。夫と関係なく自身がその階級に相当する女性も同様に呼ばれます。これはちょっとややこしくて、たとえばQueenは、「女王」である場合もあれば、「王妃」を意味することもあります。女性は配偶者によって身分が決まることが原則だったからでしょう。このあたり、ジェンダー論的には突っ込みどころが満載なのだと思います。
他方、日本語で「肩書き」というと通常は姓名につく尊称よりも、役職上の地位を指すことが多いですね。課長、部長、社長などの方が、人の地位を判断するためには重要な情報だと考えられているからでしょう。しかし、こちらではセミナーの申し込み用紙などにもこうした項目はほとんどありません。大切なのは階級、あるいは社会的に認められたカテゴリーなのです。
サセックス大学開発研究所(IDS)には、「外国から出かけていく専門家が勝手な思い込みで開発計画を立てるのは間違っている」「貧しい人たちに開発の主導権を渡すべきだ」という『参加型開発』の主張を一貫して行ってきたロバート・チェンバースという名物教授がいます。正式にはすでに引退していますが、今でも自転車に乗って頻繁にIDSにやってきます。先日(2011年5月)、彼の50年にわたる活動をたたえるセミナーがIDSで開催され、彼の主張に共感する研究者、開発実践者、教え子たちが世界中から集まりました。
丸一日様々なテーマを巡ったセミナーをやっていたのですが、その中で興味深かったのは「開発研究が博士号取得者の手に独占されていて良いのか」という問いかけでした。参加型開発では、先進国で机上の空論を勉強した技術専門家の知識よりも、地元の小学校しか出ていなくても、生活の知恵を蓄積してきた人の知識の方が重要な場合がある、ということを強調します。しかし、そうしたことをIDSで学んだ人は、修士号、博士号を得て「専門家」になり、その肩書きがないと国際機関や援助機関にはなかなか就職出来ないのです。
これは開発研究の本質的な矛盾なのです。「ジェンダー平等」「差別の撤廃」をうたう開発の専門家が、自分の名刺には「区別」を強調する記号である「博士」を銘記していることをどう考えればいいのでしょうか。開発専門家は自分の肩書きに「区別的な記号を用いない」、という原則を提起することから真の社会変革が始まるのかもしれませんね。【2011/7/4】
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