線香水
今朝、大阪からの新幹線で東京に戻りました。
都会にいると、あまり実感がわきませんが、この時期新幹線に乗ると、田植え直後の水田の緑がまぶしいですね。新幹線沿いの水田は、ほとんどが灌漑施設が整備され、四角く区切られた近代的な水田です。そして注意してみるとコンクリートの灌漑水路があって、水門やポンプ小屋なども見えます。
もちろん「豊葦原(とよあしはら)瑞穂(みずほ)の国」である日本には、緑の水田の光景は、ずっと昔からあったのですが、今日のような四角い水田が広がっている光景がみられるようになったのはそう古いことではありません。第二次世界大戦後の農地改革と、土地改良の結果、現在のような姿になったのです。それ以前に整然と区画された大きな面積の水田を持っていたのは一部の裕福な農家に限られ、多くの小農、小作人は小さい田んぼをあたらこちらに分散して持っていて、田んぼは地形(特に高低差)に応じて複雑な形をしており、かつとても入り組んでいたのです。
そうした田んぼでも水稲を育てるためには灌漑が必要で、このためにため池や小川などを水源とする灌漑設備が江戸時代以降少しずつ開発されてきたのでした。高低差を利用した水路では当然上流の人が有利です。しかし、上流の人がすべての水を取ってしまったら、下流の人は稲を育てることができません。これは、ため池の水位が下がったり、川の流量が減ってきたときには深刻な問題になり、しばしば水争い(水論)が発生し、時には流血の事態となりました。
そこで、なるべく多くの人が平和に水を使えるように、様々な仕組みが生まれました。その一つが「水番」です。水を下流の田んぼに分けていく分かれ道や、幹線水路から支線に分流する分水施設(多くは土を盛ったり、板を差し込んだりして水の流れをコントロールします)ごとに「水番」がいて、その人が下流の田んぼへの給水をコントロールします。この人は水路を利用するすべての人の合意で任命し、その仕事の対価としてこれもまた関係者すべてが応分に供出するお米を現物でもらったそうです。
もう一つの工夫が「線香水」です。これは給水の時間を公平に分けるために、線香をともして線香一本分の時間が経ったら、次の田んぼに水を回すという仕組みだったそうです。線香というと、私たちは仏壇やお墓でしか使い道がないように思っていますが、実はこんなに重要な役割をする生活道具だったのですね。
線香ついでにもうひとつ。昔の吉原などの歓楽街では、客が女性と遊ぶ際の料金に時間制を取っている場所もあり、そういう場所ではやはり線香をタイマーとして使っていたのだそうです。時計がない時代の生活の知恵ですね。
※線香水についてもう少し詳しく知りたい人は、玉城哲他編『水利の社会構造』(東京大学出版会 1984)をお読みください。吉原の線香については、落語「立ち消え線香」「替わり目」などをお聞きください。
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