社会進化論(パーソンズ)

 途上国の開発問題を社会学的に考えるときには、どうしても「近代化」について考えないわけにはいきません。そもそも社会学という学問自体が「近代化」とともに発生し、近代化とは何かを考える学問として生成してきたという事情もあるのですが、そうした出自を離れても、現在の途上国の人々が「何を目指して開発・発展を願っているのか」という問いを発するならば、その答えは「近代化」ということになるのではないか、と思うからです。

 生物進化論のアナロジーで「社会進化論」を唱える人はたくさんいます。生物が単細胞から高等生物(その頂点としてのヒト)に進化したように、人類社会も「原始」→「中世」→「近代」と変化するに従って社会の仕組みが複雑化し(分業・分化が進み)、その結果社会全体の生産力や課題対応力が高まるのだと考え、これを「進化」と名付けるわけです。

 20世紀中盤のアメリカ社会学の巨人タルコット・パーソンズも、こうした社会進化論的立場を取っていたようです。ある社会が様々な理由で「進化への圧力」を受けると(内部からこの圧力が発生することもあります)、まず社会内部の役割が「分化(分業)」し、それぞれが専門性を発揮することによって社会全体の「問題対処能力が高まる」と考えました。これはこれでいいのですが、分化にともなってこれまでの社会秩序が変化します。そこでこれを放置すると社会が分裂してしまいます。そこで社会は自己保全システム(ホメオスタシス)を働かせて、いったん分化した社会の諸要素を新たな組み合わせで「包摂」するようになり、これに伴って社会が新しい価値観を共有するようになることで、新たな秩序が成立しようやく社会が安定する。これがパーソンズの考える「社会進化」のメカニズムのようです。

 これを途上国の発展・開発の問題に当てはめることができるのか、というのが目下のところ私の関心です。パーソンズは1960-70年代のアメリカを「もっとも進化した社会」と考えていたようで、キリスト教的な自由主義が社会に共有される「普遍的価値」となることが「進化」ととらえていたフシがあります。だとすると、それ以外の価値を持つ社会は「進化していない」社会なのか、あるいは「脇道にそれた」社会なのか。これをどう考えるのかが、問題です。これは今日のグローバリズムをめぐる議論にもつながるような気がします。

 パーソンズが分析したのはある意味で「黄金時代のアメリカ」で、70年代以降アメリカでも「近代の病理」が噴出しているため、今ではパーソンズは「時代遅れ」と見なされています。しかし、社会の秩序がいかにして作り出されるのか、という関心に基づく「社会システム論」は今日の途上国の問題にも何からの示唆を持っているのではないかと思います。

 ※パーソンズの社会変化に関する入門書としては、松岡雅裕『パーソンズの社会進化論』恒星社厚生閣 1998があります。ちょっと読みにくいですが。

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