【もし今漱石がロンドンにいたら・6】《Shun-kin》

   私がバービカンセンターに行こうと思ったのは、ロンドン地下鉄の駅の長いエスカレーターの横にあったポスターがきっかけでした。そのポスターには少女の人形を黒子の格好をした二人の女性が操っている写真があり、英語でShun-kinと書いてありました。ロンドン地下鉄のエスカレーターはスピードが速いのでその横に書いてある英語の説明は読み切れません。最初はこれが何を意味するのかわからなかったのですが、何度か目にするうちに「春琴」かもしれない、と気づきました。

        私はあまり谷崎潤一郎を読んだことがありませんが、「春琴抄」が代表的な谷崎文学だということは知っていました。谷崎は1886(明治19)年生まれですから漱石と同時代を生きていますし、すでに1910年から作品を発表し始めているので1916(大正5)年に亡くなっている漱石も谷崎のことを多少は知っていたかもしれません。しかし谷崎が文壇で地位を築くのはしばらく後ですし、「春琴抄」「陰翳礼讃」の発表は1936年なので漱石はこれらの作品を読んでいません。

         谷崎は日本のみならず西洋でもその文学性が高く評価されています。特に耽美的なストーリーは日本を感じさせるエキゾチズムと相まって西洋人の関心を引いているのではないでしょうか。今回の芝居も、「日本」を強く意識させるものでした。しかし、その日本は私たちが「谷崎文学」に代表させたいと思っているものとは必ずしも一致しません。それが、私には興味深かったのです。

         バービカンのメインシアターは、ロイヤル・オペラハウスに似た作りで、客席が四階まであり、奥行きはさほどない縦長の空間です。さてこの客席に開演前に入るとBGM代わりに山手線の構内放送が流れていました。高田馬場駅では発車ベル代わりに鉄腕アトムのメロディーが流れますが、そのアトムのメロディーが流れた後に「渋谷~、渋谷~。」「ドアが閉まります、ご注意ください。」「危ないですから駆け込まないでくださ~い。」そして列車の発車音。これら一連の音が2分くらいの長さで編集されていて、それが繰り返されているのです。

         バービカンに入ったとたんに、英訳された日本のマンガ本を見、イギリス人も参加するコスプレを見、このBGMを聞かれさて、私はかなりのカルチャーショックを受けました。私が日本を紹介しようとすれば、こうした取り合わせは決して思いつかないでしょう。そうです、これがイギリスにおける日本の一つの表象の仕方なのです。そして、それなりに自然なのです。Shun-kinはもちろん谷崎の小説を下敷きにしていますし、俳優はほぼ全員日本人ですが、演出はイギリス人でした。これも新鮮。

         芝居は最初の台詞だけが英語で、それは盲目の三味線弾き春琴に献身的に仕えた佐助の子孫がイントロを述べるという設定。それ以降はタイムスリップして、台詞はすべて日本語です。舞台装置は畳と柱のみで構成されています。これもそれなりに日本をイメージさせるのでしょう。背景のスクリーンにイメージが映り、舞台を補完します。

         さて、春琴役は基本的に「人形」です(ときおり女優が演じますが)。これには人形浄瑠璃的な要素が取り入れられていて日本を感じさせます。二人の女優がこの人形春琴を扱います。この人形が谷崎的なシュールレアリスムの表現に一役かっていました。時折「陰翳礼讃」の朗読が(もちろん日本語で)入りますが、基本的にストーリーは佐助の献身的・耽溺的な春琴への愛を軸に展開します。佐助が自ら眼をついて失明し、これでお師匠さんと同じ世界に住める、と喜ぶくだりはそれなりに迫力がありました。

         観客にはロンドン在住と見られる日本人も多かったですが、少なくとも半分はイギリス人なので日本語が理解できない人も多いはずです。そこで舞台の両そでに英語の字幕が出ていました(イギリスでもオペラの時にはイタリア語なので英語字幕が出ますから、それと同じですね)。また、同時通訳のイヤホンガイドを使っている人もいたようです。でも、芝居はあくまで日本語で進行します。

        この芝居に足を運んだイギリス人はそもそも日本に興味がある人たちなので、これがイギリスにおける日本の認知度を示しているとは言えません。しかし、日本の作家の作品が日本語で上演されているという事実の背景には、漱石以後の日本の作家の作品が少しずつ西洋人にも紹介され、それに共感する西洋人が確実に増えてきた過去百年の蓄積があるのは間違いありません。ロンドンに「日本」は確実に存在しているのです。もし今漱石がロンドンにいて、Shun-kinを見たらきっと喜ぶのではないかと思います。ただ、谷崎の耽美的なストーリーには眉をひそめたかもしれませんが。【2011/6/21】

Follow me!

投稿者プロフィール

satokan
satokan