【ブライトン特急・36】《Kills》

私はたばこを吸わないのですが、イギリスでの喫煙環境はある意味で「懲罰的」です。喫煙者に対してかなり攻撃的と言っても良いでしょう。攻撃は三方向から。脅しと価格と空間です。

       日本でもたばこのパッケージには「健康のため吸い過ぎに注意しましょう」という注意書きが書かれていますが、こちらでは「喫煙はあなたを殺します」(Smoking Kills) という脅し書きがたばこのパッケージの一番目立つところに書いてあります。せっかくおしゃれなパッケージデザインをしても台無しになるような場所を占めているのです。よろず屋(News Agents)のたばこのショーケースの一番上にもこの言葉が書かれています。文字通りに取ればほとんど「吸うな」と言っているようにものですね。それでももちろん、吸いたい人はへこたれずに買うのですが。

         二つ目の攻撃は価格です。日本でもたばこの税率を上げることで喫煙を減らすとともに税収を増すという議論がありますが、こちらではすでに懲罰的な価格になっているようです。標準的な銘柄で一箱7.3£【1200円】なので、低所得者、学生などでどうしても吸いたい人は対応策を講じています。それは、たばこの葉と巻紙を別々に買うことです。こうするとかなり安くなるらしく、列車の中で巻紙を広げその上にたばこの葉をおいてくるくると巻いている姿をしばしば見ます。降りてから吸うためです。これを見ていると結構イギリス人も手先が器用じゃないの、と思います。

         三つ目は空間です。イギリスでは2007年にすべての屋内店舗での喫煙が禁止されています。レストランもパブもクラブも例外ではありません。とはいえ、アルコールとたばこの密接な関係は断ち切りがたく、パブでは建物の外のテーブルには灰皿が置いてあることもあるのですが、多くの場合パブの外のスペースは歩道にはみ出すことになるので、これも禁止すべきだという圧力はあるようです。現状では「外吸い」で何とかバランスを取っているので、どんな冬の寒い日でも必ずパブの外で飲んでいる人がいます。

         すでにイギリスではたばこの宣伝は禁じられているのでテレビのコマーシャルや看板を見ることはありませんが、さらにたばこ産業への圧力は強まり、来年2012年4月からは道路から見えるところにたばこを展示することも禁止されることになりました。ロンドンには歴史あるたばこ専門店(tobacconist)が何軒かありますが、こうした人たちはいったいショーウィンドーに何を飾ればいいのか、と当惑しています。日本でもいずれこうした規制が強化される日が来るのでしょうか。

         喫煙に対するこうした徹底的な攻撃を見ていると、そこまでいじめるならいっそのこと非合法化した方がよほどすっきりするのではないかという気もしてきます。もちろん、アメリカの禁酒法が失敗したように、人の嗜好品は、どれだけ「社会的正義」を振りかざして規制してもしきれるものではありません。最近イギリスの麻薬(Drug/Illegal Substances)による死者は年間2,278人でアメリカ、ウクライナ、ロシア、イラン、メキシコに次いで世界六位だという報道がありました。若者の麻薬乱用はいつも社会的な関心を呼びますが、イギリスの特徴は中年以上の死亡者多いことが問題視されています。長年の常習者ですね。たばこはこれに準じる危険なものという位置づけなのでしょう。

         麻薬は非合法です。そしてそれが非合法であることはイギリスでも日本でも社会的にほぼ合意されています。しかし、オランダでは一部の麻薬は合法で、それ専門のコーヒーハウスが堂々と営業しています。また、シャーロック・ホームズの時代には、テムズ川の波止場地域には「阿片窟(Opium den)」があり、合法的に営業していました。ホームズが捜査のために変装してここに潜り込んでいるシーンは開発社会学的にはなかなか興味深いです。

         もとより何が「良いもの(合法)」で何が「悪いもの(非合法)」かは、社会的に決まるのですが、たばこは今やこの境界線上に追い詰められているように思います。ただし、低所得者、失業者が蔓延する今日のヨーロッパでは、そうした人々の「ガス抜き」のための必要悪として認められているということなのでしょう。これは、イエメンでカート(軽い覚醒作用があるアカネ科の草木の葉っぱ)を噛むことが社交の道具として一般的であるにもかかわらず、お隣のサウジアラビアでは非合法であることとも似ています(日本でも準麻薬の位置づけです)。

         現時点ではイギリスでは、吸いたい人が吸うことは認めはするが、一般市民の迷惑になることはしないでほしい、またこの悪習に染まる人が増えるような行為はしないでほしいという立場ですね。これは「善良な市民」の利益を中心に考える「社会防衛」の発想で、階級社会ならではです。そして「受動喫煙」という概念は「社会防衛」の武器として有力です。

         Smoking Killsという脅しは今のところ喫煙者本人に対する警告(Smoking kills you)ですが、そのうちSmoking kills usという意味で使われ始めれば、たばこは限りなく非合法に近づくでしょう。最近では社会的責任投資(Social Responsibility Investment: SRI)という動きの中で、投資家が「軍事産業、アルコール産業、たばこ産業」を回避するという動きも出ています。振り返って見れば、西洋にたばこが導入されたのはコロンブスがアメリカを発見してからです。500年のたばこの歴史の中で、今ほどたばこ産業がピンチに追い込まれていることはないでしょう。【2011/6/25】

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