【イエメンはどこに行く・12】《アデン・アラビア》

         アデンはインド洋の西の端に位置し、アラビア半島と「アフリカの角」ソマリアに挟まれたアデン湾に面しています。アラビア半島とアフリカ大陸の間の紅海の入り口に当たり、スエズ運河を越えて地中海に抜けるためには必ず通り抜けなければならない航路上にあります。

         岩山に囲まれた天然の良港で、インド洋を航行する船舶にとっては重要な停泊地であり、15世紀には明の鄭和が寄航している記録もあるそうです。蒸気船の時代になってからは石炭補給地(のちに給油地)としてイギリスが活用し、1839年にイギリスが軍事占領した当初はインド提督の管轄下で(インド経営のためのイギリス船舶を海賊から守ることがもともとの目的だったため)、インドからの移民も多く現在でもアデンにはインド系の顔立ちの人が目立ちます。

         イギリス占領下で、アデンは世界第二の寄港数を誇る近代的自由港としてその名を轟かせ、幕末から明治時代にかけての日本からの欧州派遣留学生の多くもこの港に寄港しています。スエズ運河完成(1869年)後はイギリスのアジア航路の要衝となり、イギリス人ばかりでなく、アフリカに進出しようとするヨーロッパ人のたまり場となっていたようです。詩人ランボーは19世紀末のフランス商社勤めの頃、この港に住んでいました。フランスのコミュニスト思想家、ポール・ニザンがパリの高等師範学校在学中にパリを逃げ出して一年間この町に住んだのは1930年。後にまとめられたエッセイ『アデン・アラビア』に彼は「アデンにヨーロッパの圧縮された姿」を見たと書いています。

         1937年に「アデン植民地」としてイギリス本国からの直接支配になり、補給機能充実のために製油所が建設された1950年代がこの港のピークだったようです。当時は港の税関・入国管理事務所を抜けたところに「免税店街」があり、旅客船が着くたびに船からはき出された客でごった返したそうです。

         その後旅客は航空機の時代になっていき、また1960年代以降は中東・アフリカにおける英仏の影響力が低下してアデンは顧みられなくなっていきますし、1970年代になるとアラビア半島の産油国が「オイルパワー」を用いて急速な近代化を開始し、アデンは「アラビア半島一の近代都市」から「田舎の港町」に転落していきました。《タワーヒー》と呼ばれるこの税関前の海岸通りには、今でも昔のままの石造りの建物がありますが、いずれも鎧戸を下ろし、さびれ果てていて当時の面影はありません。アデンの没落はある意味では「時代の流れ」ですが、他方政治に翻弄された「人災」の部分も少なくありません。

         まず第一の「失敗」はイギリスの植民地統治の後遺症です。イギリスは1830年代からアデン港の保持に全力を注ぎましたが、その後背地である「アデン保護領」「ハドラマウト保護領」については、資源の乏しい乾燥地、山岳地であり、植民地化するメリットを感じていませんでした。このため、これらの地域は現地の首長(Sahikh)やスルタン(Sultan)が治める「土侯国」「スルタン国」の権限をある程度認め、補助金を提供しながら間接統治をしていました。さて1960年代に末にイギリスが植民地を手放すときには、なるべく親英的な穏健派に権力を譲ろうといろいろと工作しました。

         アデンはイギリス直轄領で、教育などの機能も充実していたし、港湾関係の雇用もあるので北イエメンから山を下りて多くの労働者が流入し、アデンに定着する人も出てくると、子弟を出身地から呼び寄せ、学校教育を受けさせます。このため、アデンには他の南イエメンとのつながりの薄い北イエメン出身の労働者が多くなりました。このほかにイギリスに連れてこられたインドからの移民も大きなコミュニティーとなっています。そのほか対岸のソマリアからも流入してきます。この意味でアデンは国際都市だったのです。 

            湾を挟んで港の対岸《リトル・アデン》に建設されたアデン製油所はブリテッシュ・ペトロリアムの経営する近代的な施設で、多くの労働者を雇用し、労働者のためのラジオ局、映画館などの施設も充実していました。またもともとの港湾作業に従事する労働者も数多くいます。

           1956年のスエズ危機で英仏を向こうに回して戦ったエジプトのナセル大統領はアラブ世界全体の英雄となり、彼の唱える「アラブ民族主義」はイギリス植民地下にあるアデンの人々、保護領となっている地域の若者、さらにはイマームの圧政に苦しむ北イエメンのエリートなどを刺激します。こうしてアデンやアデン保護領では労働組合、アデンで教育を受けた部族出身者などを中心に急速に「反英独立闘争」が活発化します。

         イギリスは当初これを軍事的に抑圧しますが、南イエメン独立の方針が発表されると、過激化するアデンの労働者よりもアデン保護領の保守的な首長たちに政権を委譲して、独立後の権益を確保することをめざし、1959年に六つの首長国からなる「南アラビア首長国連邦」を結成します(その後1962年に4つが加わって「南アラビア連邦」になり。1965年までには「上ヤーフェア」首長国以外のすべての保護領の首長国が加盟しました)。この穏健派首長の抱き込みによる親英国の確保、実はアラビア半島の対岸でも同じ試みが行われていたのです。それが、現在のアラブ首長国連邦(UAE)です。UAEは今でも七つの首長国の連邦で、ドバイ、アブダビなどは中東でも指折りの近代都市になっていますね。

         イギリスはこうした保守派首長国によってアデンの過激化する政治勢力を中和しようとしたのですが、ペルシャ湾岸のUAEのようには行きませんでした。それは、1962年に北隣のイエメンで共和国革命が起こり、南部イエメンの人々にも「革命熱」が広がったこと、さらに紅海を挟んだ向かいにはナセルのエジプトが控えており、ナセル大統領からの物心両面の支援が「アラブ民族主義」勢力に届きやすかったからです。

            アデンで彼らは占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)を組織して独立闘争を継続します。今なら、イギリスやアメリカはナセルを「テロリスト」と呼ぶかもしれませんね。イギリスは1965年には「南アラビア連邦」の自治権を停止して直接統治に乗り出ますが、思い通りにはいかず妥協してFLOSYやその他のアデンの政治勢力、と南アラビアの首長国と独立方法について交渉を始めます。

             ところが、時は冷戦時代で、アフリカに続々登場した社会主義政権同様、アデンにはFLOSYよりさらに急進的な社会主義勢力NLFが台頭、東側勢力からの支援を受けて1967年後半に首長国を次々と軍事的に攻略、同年10月にはアデンも支配下に置くまでなりました。イギリスはもはやアデンのコントロールをあきらめ、11月末にNLFと独立協定を結んであっけなく撤退しています。新生「南イエメン人民共和国」はアデン、旧アデン保護領、旧ハドラマうと保護領を統合して誕生します(1967年11月30日)。

        この時点では、アデン以外の地域は決して社会主義に賛成していたわけではありません(南アラビア連邦の一部の首長たちはイギリスやサウジアラビアに亡命しました)が、たまたまアデンを握っていたNLFがイギリスから政権を移譲されたことが、これ以降長く続くアデンの凋落の第一歩となるのです。この意味で、イギリスの無責任な権力放棄の罪は小さくありません。        【佐藤寛 2011/7/12】

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