【イエメンはどこに行く・10】《ハドラマウト・後編》

        ハドラマウトに行くと、イエメンの他の地域とはモスクの様式が異なっていることに気づきます。山岳部イエメンのモスクのミナレットは円柱形で、漆喰の白と日干し煉瓦の茶色のいずれかの色が多いのですが、ハドラマウトのミナレットは細い角柱形で、一番上にバルコニー形式の吹き抜けのスペース(本来は礼拝を呼びかける人がそこに立って朗唱した場所ですが、今はラウドスピーカの設置場所)が付いています。そして淡いピンクやブル-、緑などのパステルカラーで彩色されています。

         人々の顔つきも、山岳部アラブは彫りの深い厳しい顔立ちですが、ハドラマウトに来るとアジア系の血が混じったやや鼻の低い温和な顔立ちが目立ちます。ハドラマウトは旧南イエメン時代はアデンと並ぶ人材供給源で、イエメン社会党はアデン系の人々とハドラマウト系の人々によって支えられていました。しかしながら、1994年の内戦でハドラマウト出身のアルビード副大統領が失脚して以降は、ハドラマウト系の人々の発言力は低下します。

         南北イエメンが統一されて、社会主義的な政策が崩壊したことは、経済活動に活路を見いだすハドラミー(ハドラマウトの)商人にとっては朗報でした。しかしながら統一に伴って政府の機能の多くと主立った政治家はサナアに移ってしまい、彼らの活躍の舞台であったアデンは首都の地位を失って重要性が低下してしまいます。

        また、高原都市である首都サナアは灼熱のハドラマウト渓谷(夏には50度を超えることもあります)に比べて寒すぎて(冬には霜が降りることもあります)住みにくく、また「野蛮」な山岳地イエメン人の支配する政府とハドラマウト商人とはなかなかそりが合いません。こうしてハドラミーはイエメンの政治・経済の蚊帳の外に置かれてしまうのです。

         しかも、サナアの中央政府からはハドラマウト地方の開発はさらに後回しにされがちであるばかりでなく、「行政改革」の名の下に従来のハドラマウト州を海岸部(港町ムカッラが中心)と内陸部(ワーディーのオアシス都市セイユーン中心)に分割するという提案があり、これに対してはハドラミーは猛反発しています。確かに他の18州に比べてハドラマウト州の面積は不釣り合いに大きいのは事実ですが、ハドラミーとしてのアイデンティティーを強く持つ彼らにとっては分割は受け入れられないのです。こうした不満の果てに、一部では「ハドラマウト独立」を唱える声出てくる始末です。

         今回の民主化デモはサナアを中心に盛り上がっていますが、ハドラマウトの人々がこれにどのようにコミットしているのかは明らかではありません。しかしながら、ハドラミーにしてみれば、誰が政権を取るにせよ「とにかく我々の好きなようにさせてくれ」というのが本音でしょう。実際に、彼ら自身で地元の発展を計画し、実施していく能力は確実にあると考えられます。それなのに、中央政府から任命されてくる軍人や知事が行き勝手なことばかりするから発展できないのだ、というのが彼らの偽らざる心情なのです。

         では、今後ハドラマウトはどうなるのでしょう。イエメン全体の発展のためにも、特に潜在力の高いハドラマウトは、ハドラマウト人自身による開発計画にゆだねるべきでしょう。その基本は人的資本を活用した自由な商業活動による発展です。そして東アフリカ、東南アジア、南アジア、さらにはサウジアラビアの財閥とのネットワークという財産を最大限活用できるような活動の自由を与えることが望ましいのだと思います。 ハドラマウトにとっては、サナアの政権が誰の手に落ちようとも直接的には関係ありません。その意味で今回の一連の騒動の影響は限定的でしょう。しかし、新たな政権がこれまで通りハドラマウトを軽視したり、過度に制約を課したりすることは南アラビア全体、アラビア半島全体の安定にとって望ましくない事態を招きかねないと思います。
【佐藤寛 2011/7/2】

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