【もし今漱石がロンドンにいたら・13】《戦争》

            ロンドンから東京に戻ってすでに一ヶ月が経ってしまいました。ロンドンのさわやかな夏から東京の酷暑に切り替わって、もはやばて気味ですが、そろそろブログも復活したいと思います。

           今年(2011年)は、東日本大震災の後遺症とも言える節電モードのために東京ではことさらに「暑い夏」を体験しています。しかし暑かろうが涼しかろうが、日本の夏はいつも通り広島(8月6日)、長崎(8月9日)、終戦記念日(8月15日)と第二次世界大戦関連の記念行事が続きます。お盆とセットになった敗戦儀礼と言っても良いかもしれません。

           こうした記念行事は「大東亜戦争」の最終局面である本土決戦の悲劇と強く結びついているので、アメリカとの戦いがクローズアップされますし、戦後の占領も実体的にはアメリカ軍による占領でした。しかし第二次世界大戦の主戦場の一つである東南アジア戦線では日本はイギリスとも戦っているのです。「鬼畜米英」というスローガンはイギリスも主敵であったことを示しています。

           さて、漱石の時代の日英関係と現代の日英関係との最大の違いは、戦争に伴う互いに対する憎しみ感情の発生と抑制、というプロセスを経験しているかどうかではないかと思うことがあります。もちろん、明治維新前夜の1864年には薩英戦争や下関戦争がありましたが、これは大人(英仏軍など)と子供(薩摩藩、長州藩)のけんかですからイギリス人にとって当時の日本は憎悪の対象にもなりません。

           その後、文明開化と富国強兵につとめた日本は日清戦争に勝利し(1894年)、その結果漱石のロンドン滞在中(1900-1902年)には日英同盟が締結されています。そして漱石の帰国後の日露戦争で勝利(1905年)して欧米に衝撃を与えますが、日本海海戦のヒーロー東郷平八郎元帥は明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに海軍士官として官費留学した人でした。今で言えば、途上国からの研修生という位置づけだったのでしょう。このため日本の勝利は「イギリスで訓練を受けたことの成果」であるという自負もあって、イギリスは日本の成長を余裕を持って眺めていました。

           ヨーロッパが主戦場であった第一次世界大戦では日英は交戦していませんが、第二次世界大戦のアジア戦線で両国は初めて直接対峙することになります。特に泰緬鉄道(タイとミャンマー間の補給路)を巡っての攻防戦は熾烈を極めたのです。現在では日英両国にこの当時の経験を直接語る人はほとんど残っていませんが、第二次世界大戦後しばらくは、双方に「旧敵意識」は残っていたようです。

            旧敵意識は、具体的にはこんなところに現れます。ミステリーの女王アガサ・クリスティーの『ねずみとり(Mouse Trap)』はロンドンで驚異的な59年にわたるロングランを続けている芝居です。この脚本が書かれ、初演された1952年は終戦後7年しかたっていない時です。

        第2幕。殺人事件の調査のために民宿にやってきたトロッター刑事は、若い宿泊客を異常性格者の犯人ではないかと疑いますが、宿の女主人モーリーは、別の年配の客も犯人の可能性があると主張する場面:
 モーリー「もし子どもが異常性格者なら、父親もそうかもしれませんわ」
 トロッター刑事「可能性としてはね」
 モーリー「例えば日本軍の捕虜にでもなってひどい苦労をして帰って来たとしたら・・」

         この台詞は、日本人もしばしば見に来る現在のロンドンでの上演ではカットされているようですが、初演時には多くの聴衆にとって、「異常性格になる」きっかけとしてはとても説得的に響いたに違いありません。日本軍の捕虜になるというのは筆舌に尽くしがたい過酷な経験だ、というのが常識だったからです。映画『戦場にかける橋(英米合作・1957年)』でも、日本軍による英米捕虜の過酷な扱いが強調されており、日本軍の捕虜になった英軍兵士の扱いが虐待的であるという主張は、イギリス国民一般の「非道な日本人」イメージと憎悪の形成に寄与したに違いありません。

        他方日本兵も捕虜になり、ひどい仕打ちを受けました。しかし敗戦とそれに続く極東裁判によって、戦争を開始した責任のすべてを押しつけられた日本では、ソ連軍によるシベリア抑留以外、戦時の捕虜の扱いについて旧敵を非難する論調はほとんど禁句でした。

         そんな中で自身が戦前から西洋史学者であった会田雄次は英軍の捕虜となった(戦闘中ではなく、終戦による捕虜なので位置づけが若干異なりますが)ビルマでの二年間の捕虜経験に基づいて『アーロン収容所』(1962年)を書きました。その前書きで彼は「私は英軍、さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきた」と述べているのです。

         対等な関係の戦闘中よりも、圧倒的な非対称関係である捕虜状態でこそ、こうした憎悪が拡大されるのは当然なのかもしれません。ただ1960年代の日本では、冷戦構造下で西側陣営に帰順する必要性もあって西欧に対する賛美が主流であったために、『アーロン収容所』が日本人の英国観に大きなダメージを与えなることはなかったのです。 他方、イギリス人の日本軍に対する否定的イメージも、高度経済成長期を経て日本製品・日本文化に対する好感度が蓄積されていくにつれて、背景に退いていったようです。

         こうして今日、表面的には相互に友好的な日英関係が成立しているのですが、それがお互いに相手を憎悪する経験を経た上のものであるために、「戦争経験なし」の関係よりは一段深い相互理解に達していると言えるかもしれません。

        漱石が英国留学時に感じた「不愉快」の背景には、圧倒的な力の差(その原体験としての薩英戦争や下関戦争での日本側の惨めな敗北)があり、しかもイギリスの一般国民はそんなことがあったことさえ知らないので憎しみさえ抱かないという「日本の不在」、「日本の軽さ」があったのだと思います。

        このブログのテーマである「もし今漱石がロンドンにいたら」どう考えるか、という点に引きつければ20世紀初頭の「英国における日本の不在」に比べると、憎悪をも含めて「無視し得ない存在としての日本」が認識されている今なら、漱石はノイローゼにならなかったのではないかと思うのです。
【2011/8/16】

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